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【戦国武将に学ぶ】前田利家~武勇と仁愛を兼備、秀吉を支えた「槍の又左」~

  • 2020.10.25
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金沢市内にある前田利家像
金沢市内にある前田利家像

前田利家は1538(天文7)年、尾張国荒子郷(名古屋市中川区荒子町)で2000貫文の所領をもつ前田利昌(利春とも)の四男として生まれています。家督は兄の利久が継いだため、普通なら、歴史に名を残すことなど考えられない境遇でした。

信長が評価、四男ながら家督

ところが、14歳で織田信長に出仕してからは信長に気に入られ、最初は近習(きんじゅ)、次いで「母衣衆(ほろしゅう)」の一人に組み入れられました。母衣衆は「幌衆」とも書かれ、母衣を背負って信長の身辺を守る親衛隊兼使番(つかいばん)です。織田家の母衣衆は背負った母衣の色によって、「赤母衣衆」と「黒母衣衆」の2隊に分かれ、利家はその赤母衣衆のトップでした。ちなみに、黒母衣衆のトップが、後々も利家のライバル的存在となる佐々成政(さっさ・なりまさ)です。

そのようなことから、やがて、1569(永禄12)年、信長の命令で兄・利久に代わり、利家が前田家の家督を継ぐことになり、重臣の列に加わります。利家は通称を「又左衛門(またざえもん)」といい、槍(やり)が得意だったことから、「槍の又左」と呼ばれ、信長家臣団の武闘派として知られていました。

信長の重臣筆頭だった柴田勝家が越前8郡を与えられたとき、利家は与力(よりき)としてその配下につけられ、1575(天正3)年には、佐々成政、不破光治とともに、3人で越前府中において10万石を与えられています。3者均等だったとして、およそ3万3300石を与えられたことになります。

親友だった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)はその頃、既に12万石の所領を与えられていたので、差をつけられた形でした。利家が能登1国を与えられ、初めて「一国一城の主」になったのは秀吉よりはるかに遅れ、1581年のことでした。

出世のスピードに違いはありましたが、利家と秀吉は仲がよく、利家の妻おまつと秀吉の妻おねも仲良しで、早くから、家族ぐるみのつきあいをしていました。利家・おまつ夫妻の四女・豪姫が秀吉・おね夫妻の養女になったことはよく知られています。

勝家か? 秀吉か?

そんな利家が大きな決断を迫られたのが、1583年の賤ケ岳(しずがたけ)の戦いのときでした。利家は柴田勝家の与力だったため、柴田軍の一員として出陣していたのですが、「柴田側の敗色濃厚」と見て、途中で戦線離脱をしたのです。

利家が勝家の家臣だったら、これは「裏切り」ですが、与力の関係だったので「利家なりの判断」をしたことになります。結果的に、このことが吉と出て、その後、利家は秀吉の天下取りを支えることになり、最終的には「豊臣五大老」の一人となっています。

利家の人となりを物語るエピソードは幾つもありますが、筆者が注目しているのは1584年の「北陸版小牧・長久手の戦い」のときの出来事です。「小牧・長久手の戦い」は秀吉と徳川家康との合戦として知られていますが、利家がいた北陸でも、秀吉派対家康派の戦いが繰り広げられました。

このとき、利家は家康方についた越中(富山県)の佐々成政から、国境に築かれた末森城と鳥越城という2つの城を攻められます。末森城を守っていた奥村永福(ながとみ)は城を守り抜きましたが、鳥越城を守っていた目賀田又右衛門は「末森城はもう落ちた」という敵のうその情報を事実と信じて、城を出てしまいました。金沢城に逃げ戻った目賀田又右衛門は追放されています。

このように厳しさもあった半面、秀吉の禁教令によって改易されたキリシタン大名・高山右近を食客(しょっかく)として招くなど優しさも併せ持っていた武将でもありました。

若い頃は短気、浪人生活も

信長、秀吉をすぐそばで支え、武勇にも優れた利家。そんなに欠点はありませんが、若い頃は短気で、けんか早いことで知られていました。1559(永禄2)年、22歳のときのことですが、信長の同朋衆(側近の僧)であった十阿弥を、信長の見ている前で斬ってしまいました。激怒した信長によって出仕を止められ、しばらく、浪人生活を送っています。

また、本来、家臣を雇い入れなければならないとき、その金を惜しんだため、兵力不足に陥り、妻のおまつにたしなめられるという一面もありました。

静岡大学名誉教授 小和田哲男

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