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50歳で貯金も底をついたとき、なぜ私は起業家として再スタートできたか

  • 2020.9.9
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「なんでもマスク」の大ヒットで話題になっているA.Y.Judieの創業者、土屋順子さん。若い頃は人の夢をサポートすることに徹していたと言う。そんな土屋さんが50歳にして今度こそ自分の夢にチャレンジしようと思えたきっかけとは――。

売り上げ急落の窮地で生まれたヒット商品

「『こんな時期によく考えたわね』と言われて、すごく満足感がありました」

A.Y.Judieの代表取締役会長の土屋順子さんはそう話す。彼女は、新型コロナの猛威により世間が劇的なマスク不足に陥る中、布等を固定できるアイデア商品「なんでもマスク」を製品化し、大ヒットを生んだ会社の創業者だ。

A.Y.Judie 代表取締役会長 兼 デザイナー 土屋順子さん
A.Y.Judie 代表取締役会長 兼 デザイナー 土屋順子さん(写真提供=本人)

同社は、母親の土屋順子さんが会長、娘の香南子さんが社長という親子2代が経営する雑貨メーカーだ。

今年3月には週末の外出自粛期間中、雑貨メーカーである同社の売り上げはどんどんと落ちていった。4月からどうしたらいいかと親子で企画会議を重ねて生まれたのが、「なんでもマスク」だった。

「なんでもマスク」はツイッターで爆発的に拡散し、「どこで買えるのか」と問い合わせが殺到。4月から8月までの期間で、7万個を売り上げる大ヒット商品となった。

こうしたヒット商品を生み出すほどのパワーを持つ同社だが、ここに至るには母・順子さんの“自分探しの旅”があった。

誰かのサポートに徹していた若い頃

昭和の高度経済成長期に青春時代を過ごした順子さんは、特になりたいものもないまま、大学卒業後は一般職のOLになり、事務職を務めた。実家からは「田舎に帰ってこい。地元のジャスコで働けばいい」とよく言われていたという。

絵を描くことが好きで、デザイナーになりたいと思ったことはあった。だが、当時は「結婚する」という夢が先に立っており、ボーイフレンドのやりたいことを手伝うことを最優先にしていた。

公認会計士を目指していた男性とお付き合いしていた時は、「結婚するなら私も簿記ができないと」と順子さんも簿記の学校に通い出した。

しかし、順子さんはここで「やりすぎて」しまい、税理士を目指すレベルまで熱心に勉強していたら、その男性が離れていってしまったという。人の役に立つのが好きなのだが、ハマるとそれを忘れてのめり込んでしまうふしがあるのだ。

その後、別の男性と結婚。夫は長野でスーパーマーケットのチェーンストアを経営する家庭の出身で、自身も軽井沢で土産物屋などを商いながら、チェーン展開を目指していた。順子さんは早速チェーンストアについて熱心に勉強し、土産物店のチェーンストア展開に邁進することになる。

15年働き続けて芽生えた不満

「軽井沢という土地柄、観光よりも家族の時間を大切にしたいと考えるお客様たちは、家で使うホームファッションに目を向けるのではないか」と品物をそろえていくと、その評判が上々で、「旧軽井沢の商店街に生活雑貨品のお店を出しませんか」と早々に出店の打診をもらうことになった。ここから次々に新規出店の話が舞い込んでくる。

夫との二人三脚でチェーンストア展開を続け、退職するころには十数店に拡大。子ども二人は夫の実家に預けながら、睡眠時間を削って必死で働いた。幸い、義理の両親は商売一筋の人たちで、経営を切り盛りする順子さんへの理解があった。順子さんも、全く知らなかった商いの世界のことは義理の両親から学んだ。「嫁ぎ先は私にとってディズニーランドでした」と振り返る。

しかし、15年働き続けてきて、ふと順子さんにある不満が芽生えたのだ。――夫は出店場所を見つけてきて、会社はどんどん大きくなる。しかし、こんなに出店する意味はあるのだろうか?

もともとはデザイナー志向のある順子さんだ。日常遣いに「美」を求め、身の回りの物をシンプルにして暮らしていきたいと考えていた。

しかし、チェーン展開を続けていくうちに、ニトリや無印良品などライフスタイル系の専門店が台頭し、いつしか商品の質以上に価格における競争に陥っていた。

そうすると、購買の場面でも、できるだけ安いものを選ぶようになっていく。あるいは、付き合いの長い業者との商談で、言われるままに商品を仕入れることも増えた。そうして、シンプルどころか店にモノがあふれていくようになった。

どんなに一生懸命やっても自分の目指す店にはならず、自分自身の限界を感じるようになった。眠れない日々が続いた。

一方、夫は商材にはあまりこだわらず、さらにチェーン店化を推し進めていきたいと考えており、夫婦の溝は深まった。

48歳、娘の大学進学とともに家を飛び出す

順子さんが48歳になった頃、転機は訪れた。娘が大学に進学し、子どもが二人とも家を離れたのだ。

「私はお手伝いとして夫の家に入りました。そこから何年も過ぎたのに、自分自身の志はありませんでした」

順子さんは、自分に何ができるのかもわからないまま、夫の会社を退職し、娘の大学入学と同時に家を飛び出した。

取引先の一人が、「今度神戸で雑貨店をやるから手伝ってほしい」と声をかけてくれたので、スタッフ二人と一緒に、順子さんは縁もゆかりもなかった神戸に向かった。しかし、このお店ではたった2カ月でお払い箱になった。

誘ってくれた人は、順子さんに販売員として手を貸してほしかったようだった。しかし、やるとなったらとことんやろうとするのが順子さんだ。「バックヤードの掃除から始めたら嫌がられたみたい(笑)」と反省する。

自分が仕事で一番好きだったのは「モノを売ること」ではなく、「売れる仕組みを作ること」だったと気づくのは、家を飛び出した後のことだった。

「世の中に必要とされていない」ことを痛感

まだ貯金が残っていたので、神戸・元町で雑貨店を開いてみることにした。バリの家具を敷き詰めた10坪の店内はとてもおしゃれだったが、かつて軽井沢で店舗を構えた頃とは違い、日本は豊かになっていた。そうした商品で差別化することは難しくなっており、店にはいつも閑古鳥が鳴いていた。

お客さんも来なくて暇なので、順子さんは毎日神社にお参りに行っていた。そんなある日、三宮の高架下を歩いていてふと思った。携帯電話が鳴らないのだ。暇でお金もあって、でも誰からも呼ばれることがない生活。

「私って、世の中に必要とされていないんだ」

誰かのために生きてきた順子さんに、この状況はこたえた。

なんとか状況を変えたくて、占い師に自分の将来のことを聞いたこともある。そうする中で、ある占い師はこう告げた。

「今のように、信念がないままやっていても絶対にだめ。いい加減にせい。なぜ力を出し切らないのか。本気を出せ」

でももう50歳なんですよ、とこぼす順子さんに、占い師は畳みかけた。

「60歳までにあと10年ある。これからの10年で、20年、30年分の価値にしろ。あなたは神戸じゃだめだ。横浜に行け!」

50歳、貯金が尽きたどん底から最後の挑戦

悩みぬいた末、ここにいてもだめだと、関東に戻る決心をした。決めたら行動力のあるのが順子さんだ。翌日には横浜の「元町」で、物件を探しに不動産屋を回っていた。

50歳からの再スタートだった。

とはいえ、貯金も徐々に切り崩しており、元町の一等地に店は借りられない。横浜中華街のメインストリートから一本脇の道にある、駐車場前の2階に事務所を構えた。神戸で一緒にやってきてくれた二人のスタッフは、今回もまたついてきてくれた。

とりあえず神戸の店から在庫を持ってきて、それを飛び込み営業で売るところからのスタートだったが、やはり売れない。しばらくすると、とたんに立ち行かなくなった。自身の生命保険もすべて解約し、手元にはもう1000万円程度しか残っていなかった。スタッフの給与が払えなくなり、一人が去った。残った一人に「もうだめだね」と話し、事務所で就職活動していいよと告げた。

しかし、退路を断たれて、踏ん切りがついた。デザイナーにあこがれていた昔の気持ちを思い出し、「どうせお金が無くなるなら最後にものづくりをやってみようか」とスタッフに話すと、「やりましょう!」と付き合ってくれた。

思えばこれまでは人の夢やプランに乗ってサポートすることを全力でやってきた仕事人生だった。退路を断たれた時に、ようやく自分を主人公にすることを決めることができたのだ。

文=藍羽笑生

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