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戦争を乗り越え浅草に根付くとんかつ屋|"実用洋食"三好弥一門の系譜をたどる②

  • 2020.8.18
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観光地として人気の街・浅草にも「三好弥」はあります。都内に点在する三好弥の中でも初期にのれん分けを許された店です。戦争を乗り越えて、長い間この街を見守ってきた店はどのような物語があるのでしょうか。

戦争を乗り越え浅草に根付くとんかつ屋|"実用洋食"三好弥一門の系譜をたどる②

1945年(昭和20年)3月9日。夜間にマリアナ諸島を飛び立ったアメリカ陸軍B‐29爆撃機の大編隊は、2400キロ離れた東京を目指した。やがて東京上空に到達した279機は、日付けが変わった10日0時7分に最初の焼夷弾を投下。編隊は深川、本所、浅草、日本橋へと次々に襲いかかり、木造家屋がひしめく下町に絨毯爆撃を行なう。住宅密集地に点在する町工場や家内工業所も軍需産業の一端を担う、との米軍司令部の判断により、一般市民の生命は顧みられることはなかった。
攻撃範囲はさらに周辺にも拡大し、火災旋風も各地で発生。人々は逃げ場を失ったまま業火に焼かれた。その夜に投下された焼夷弾は38万1300発、1665トン。焼失家屋26万717戸、罹災者は100万人、約10万人が命を落とした。1日あたりの死者数は広島の原爆被害を超え、今も世界史上最悪の空爆である。強い季節風による延焼効果を狙って行われたこの焦土作戦「東京大空襲」を、米軍では「ミーティングハウス2号作戦」と呼ぶ。

まだ太平洋戦争の開戦前、1935年(昭和10年)の春に撮られた古い写真が残っている。「實用(実用)洋食」と大書きされた看板がかかる木造店舗にはいくつもの花輪が並び、その前には店主である佐々木光四郎氏ら6人が写っている。

古い写真
古い写真

1900年(明治33年)に三河から上京し、神田の洋食店で修業を積んだ長谷川好彌氏が小石川柳町で創業した洋食店「三好弥」からのれん分けを許された、「千束・三好弥」開店時の写真である。
浅草寺の北側に当たるこのあたりは当時、東京一の規模を誇った花柳界が存在し、さらに千束方面に進めば新吉原もある華やいだ繁華街だった。庶民にはまだ高価なものであった洋食だが、「實用」を謳う三好弥は手頃な値段でご馳走が食べられると、人気店になった。

初代店主の光四郎氏は三好弥一門の中では珍しく、三河出身ではない。故郷の宇都宮から上京して働くうちに伝手ができ、長谷川好弥氏のもとでの修行に入ったという。そして、三河からたびたび店に遊びに来ていた好弥氏の妹と恋仲になった。ふたりは所帯を持ち、二男一女の子をもうけた。
ところが、戦争が一家の運命を一転させる。東京大空襲で浅草一帯は炎に包まれ、家も店も焼失したという。
「どこで、どんなふうに亡くなったかも分からなくて」
今年80歳になる2代目店主、光一郎さんは話す。当時4歳だった彼は、母親についての記憶もほとんどない。その日、偶然に子どもたちの疎開先を訪れていた光四郎さんとともに戦禍を逃れた。しかし、浅草に残っていた母親と末の弟は不幸にも命を落とした。夫が不在の夜に襲った大空襲の中、母親が幼い子どもを抱えてどんな思いをされたのかは想像を絶する。
「だから、昔の写真は何も残っていないんですよ」。開業時の写真も、「たまたま親戚が持っていたものを譲ってもらったんです」。
戦後、光四郎さんは店を再建し、2人の子どもを育て上げた。

二代目店主の佐々木光一郎さん(右)と三代目店主の浩さん(左)。
二代目店主の佐々木光一郎さん(右)と三代目店主の浩さん(左)。

「本当は店を継ぎたくはなかったんですが……」、と光一郎さんは笑う。「商船学校に行きたかったんですよ」。しかし、父親の頼みを断ることはできず夢を捨てた。「親父が好きでしたから」。
カツレツ、ポークソテー、ハンバーグ、カレー、オムレツ……。19歳から父親のもとで仕込まれ、長谷川好弥直伝の洋食を覚えた。
「でもね、やはり継いでよかったですよ。店をやっているからこそ人との結びつきができて。この地域により溶け込めたと思います」
花街関係者だけでなく、浅草の地場産業である皮革関係の職人や社長たちからもひいきにされ、店は賑わった。地域との関りはより深まり、浅草・三社祭では町会の祭事部長を務めるほどに、光一郎さんはこの町に馴染んだ。

時代や町の移り変わりとともに、メニューも洋食中心のものから、よりとんかつや揚げ物をメインにした。店名も「とんかつ 三好弥」と変えた。
「なにしろ、(和食の)とんかつではなく、洋食店の頃はカツレツでしたから、ソースも違うんです」。そう話してくれたのは、今年51歳になる三代目の浩さんだ。他店で修業を積んだのちに店を継いだ。光一郎さんとともに工夫を重ね、ソースもよりとんかつに合うものに変えた。
「これが創業以来続いているメニューです」。そう言って浩さんに出していただいたのは「合皿」と名付けられた、ハンバーグ、肉フライ、エビフライが盛られたミックスフライ。付け合わせにはポテトサラダとロースハムが添えられている。肉フライとはヒレ肉の天ぷらで、他の三好弥でも見かけることがある一門伝統の料理だ。
初代の頃はおそらく洋皿に盛られていたであろうこのご馳走を、来店した父親はつまみにしつつビールを飲み、子どもたちは歓喜しながらご飯とともに食べる昭和の洋食店の家族の情景が、私自身の記憶と重なり頭に浮かぶ。

とんかつ
とんかつ
合皿
合皿

いま光一郎さんは、厨房を息子に任せて主に接客をされている。
店を継ごうと思ったきっかけを問うと、「親父に頼まれたことはなかったけど、なんとなく自分が継ぐものだとずっと思ってましたから」。そう応える息子を、光一郎さんは何も言わずに穏やかに眺めている。
「自然な成り行きですかね。(三好弥が)私たちの生業ですから」。迷いのない口調で浩さんは話す。創業から85年、長谷川好弥が直接のれん分けをさせた店としては現存する唯一となった千束・三好弥。三代にわたる父と息子の語らずとも内に秘めた思い、互いへの想いがこの店の味と看板を守り続けた。
「店をやっていて嬉しいことは、今も“三好弥一門”をたどって見知らぬお客さんが来てくださることですね。祖父はどんな思いをもって料理を作っていたんだろうかとも考えます。もし聞けるなら、その思いを聞いてみたいですね」と、浩さんは笑った。


◇店舗情報

「千束・三好弥」
【住所】台東区浅草3‐17‐5
【電話番号】03‐3874‐2250
【営業時間】11:30~14:00 17:00~21:00 (水・日・祝は20:00)
【定休日】不定休
【アクセス】つくばEXP「浅草駅」より6分


文・写真:藤原亮司

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