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『女帝 小池百合子』に学ぶ「まともな女性ほど活躍できない」日本という国の病理

  • 2020.6.11
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5月末に出版され、ベストセラーになっているノンフィクション『女帝 小池百合子』。彼女の快進撃が、虚言で塗り固められたハリボテの上に成り立っていたことを突き付ける。私たちは本書から何を学び取ることができるだろう。

記者会見する東京都の小池百合子知事=2020年6月5日、東京都庁
記者会見する東京都の小池百合子知事=2020年6月5日、東京都庁(写真=時事通信フォト)
長大な弔辞のよう

読了とともに、長く重いため息が出た。小池百合子という政治家に死を宣告し弔おうとする、長大な弔辞を聞かされた気分だった。

石井妙子『女帝 小池百合子』(文芸春秋)

いま、『女帝 小池百合子』(石井妙子/文藝春秋)というノンフィクションが大きな話題となっている。著者は『おそめ』で大宅壮一ノンフィクション賞などの候補となり、『原節子の真実』で新潮ドキュメント賞を受賞するなど、綿密な調査と筆力に定評のある、人気女性ノンフィクション作家。『文藝春秋』で話題となった記事をまとめたものだが、このコロナ禍で私たちはテレビ画面で小池を連日見続け、再び多少なりとも親近感を持つがゆえに、ここに書かれた「小池百合子」という人物の裏側に、少なからず裏切られ、なんだか傷つき、消耗するのである。

カバーそでには、このように書かれている。

“女性初の都知事であり、女性初の総理候補とされる小池百合子。「芦屋令嬢」、破天荒な父の存在、謎多きカイロ時代。キャスターから政治の道へ、男性社会にありながら常に「風」を巻き起こし、権力の頂点を目指す彼女。誰にも知られたくなかったその数奇な半生を、つきまとう疑惑を、百人を超える関係者の証言と三年半にわたる綿密な取材のもと描き切った。
あなたは一体、何者なのですか——”

次々に導き出される残酷なファクト

すでに先行報道で、この本をきっかけとした小池百合子のカイロ大首席卒業疑惑が再燃しているのをご存じの読者も多いだろう。読みながら、途中で何度も鬱々うつうつとした気分に襲われて心が折れそうになった。この著者は、なんという本を書いてしまうのだ。証言者たちの言葉から、私たちが能天気に眺めていたニュースのあの場面の裏側から、残酷な“ファクト”が次々と導き出されては並べられる。舛添要一と小池百合子が付き合っていたとか、その復讐がどうとか、脳が想像を拒否している。しかも著者の執筆の動機が、小池の学歴詐称疑惑などから湧き出た人格的な疑問=「人間的な在りよう」にあるから、事実への執着はあっても小池への愛がない。これが読んでいてつらい。

莫大な労力と時間が注ぎ込まれたファクトだらけの世界へ、才気溢れる著者の筆でグイグイと連れていかれる。それは確かだ。「暴露本」と断じた不公平な新聞書評もあったようだ。だがそういう感想を持つ人がいたとしても少しは理解できてしまうほど、どんなに小さくてもいいから光の見える出口が著者によって用意されていたらと願うのは、ナイーブだろうか。

小池百合子の生い立ちや学生時代のさまざまな無体の描かれ方も、人間として未熟な時期であることを傍わきに置いて容赦がなく、人間性を根本から疑うような内容になっている。その小池が社会に出たあとの様子は、計算高い銀座の新人ホステスがナンバーワンに駆け上がるサバイバル譚だと思って読めば、むしろ腑に落ちるかもしれない。

全体的に、登場人物の誰にも救いがないあまりのストイックさ(?)に、軟弱な私はもうノンフィクションを読まないかもしれない、と消化しきれない疲労感の中で本を閉じた。昭和後期から平成にかけて彼女の周りに群がったマスコミや政財界の登場人物全て、あまりにも小狡く愚かに描かれてしまった男にも女にも失望してしまうのは、そのころ思春期だった私にとって彼らは憧れの政治家や経営者や「論客」や「キャスター」だったからだろう。厳しくも一切手を緩めることのない、渾身のノンフィクションによって、読者は「小池百合子とは、常人の理解を超える化け物だったのだ」と当惑と失望のただ中に置いてきぼりにされ、ひどく傷つき、消耗する。

これが戦後女性解放の答えなのか

膨大な資料と綿密な聞き取りから、小池百合子という女性の67年の半生が全否定される。これまでの日本で、無邪気な百合子フィーバーとして共有されてきた気分に一切の共感を示すことなく、「小池百合子の裏切り」と「小池百合子を信じた者たちの愚かさ」を遠慮なく指摘するこの本。著者は終章でこう書く。

“私はこれまで女性の評伝を書くことを作家として、もっぱらとし、男性優位の日本社会の中で近代を生きた女性たちの煩悶を、無念を、希望を綴ってきた。(中略)。それなのに、気持ちは重く塞ぐばかりだ。彼女の快進撃を女性の解放として、女性が輝く権利を手にしたとして、これまでの女性たちの苦難の道の末に咲かせた花であるとして、受け取り、喜ぶことが、できない。(中略)。戦後女性の解放の、これが答えなのかと考えさせられ、答えが出せないでいる。”(p.425〜p.426)

後進の女性たちは何を学び取るか

私はコラムニストとして、女をテーマに、女たちに勇気と希望を持ってもらいたくて書いてきたつもりだったが、この著者と共に、なんだかすっかり心が折れてしまった。いろいろな女性有名人がマスコミであれこれ取り沙汰されるのを、「男性であったならこういう扱いはされなかっただろうに」と同情しながら、だけど基本的に応援する視線を失わぬよう努めてコラムにした。

ベッキーも安室奈美恵も渡辺直美も小池百合子も滝川クリステルも誰も彼も、私自身はその女性に積極的な興味などホントはたいして持っていなくたって、世間の女たちが話題にしたり熱狂したりするのならそこには何かしら時代の偶像としての意味があるのだと考えて、その魅力を探して掬すくい取った。片目をつぶって、もう片目で見る。それが人間を愛しながら、人間臭さを描くことだと思っていたから。

だが、2020年になってやっと日本初の女性総理候補とされる小池百合子が、内なる狂気を飼っているとしか思えない「政治ゴロ」の父親に振り回され、だが結局は父親と同じようにデコボコで無茶苦茶でなりふり構わぬ醜態を晒しながらなんにもない砂漠に道を拓ひらいた数十年の歴史のウソが詳細に克明に暴かれ、「快進撃」は虚言で塗り固められたハリボテだったと知って、後進の女たちが学び取ることはなんだろう。

それは、著者が当惑し嘆いている通りに「日本ではまともな女は活躍なんてできない」、そして「女だてらに活躍なんかするもんじゃない」という悲しい結論だ。

他のどんな女性だったら、都政のトップに立てたのか

まず、“普通の”女は男性優位社会では生き残れない。そして生き残っても、人生の隅々まで世間に監視される。目立っちゃいけない、変わったことはしちゃいけない、人前になんか立つものじゃない、そんなのペイしない。無遠慮に眺め回され、ああだこうだ無責任に下品にからかわれ揶揄やゆされ消費され、ワキの甘さがあれば全部調べ上げられてボロクソに人格否定されるだけ、ってことだ。

この本を読んだ若い世代の女性たちは、間違っても女として生きる将来なんかに希望を持たないだろう。「引き受ける」人生を送る勇気を持たないだろう。

戦後初めて国政のトップに指をかけるところまでたどり着けた女は、小池百合子だった。本書が指摘する通り「名誉男性」だ。ミニスカにハイヒールで女らしさを隠しもしない美人だ。アンチが言うには嫌味ったらしい横文字と論理一貫しないくせに鮮やかな弁舌が武器だ。噂うわさされる通り、いろいろな「権力と寝た女」なのだろう。叩いても埃が出ないなんてわけもない、グレーなうさんくささを否定できない政治家だ。御年67、周りに男しかいない昭和から平成の政界を、反転して男だったならもしかしたら数々の武勇伝として英雄伝説を飾ったかもしれない手法を駆使して巧みに泳いできたのだ。

では、他のどんな公正無私な女性だったら、2016年の日本で都政のトップに立てただろう? 他のどんな「みんなで仲良しこよし」「人目を引かず万人に適度に侮られる容姿と能力」「人脈にも運にも謙虚で恵まれない」女性なら、諸手を挙げて都政のトップに歓迎されたのだろう?

築地市場の豊洲移転問題で、小池百合子の言葉にだまされたという女将さんは、本書でこう呟いて涙を浮かべる。

「女の人が嘘をつくなんて。私、思わなかった……」

“女の人”が嘘をついたのではない。“政治家”が嘘をついたのだ。そして女は神聖でも公平でもなんでもないことを、私たち女は知っているはずだ。

(文中敬称略)

写真=時事通信フォト

河崎 環(かわさき・たまき)
コラムニスト
1973年京都生まれ神奈川育ち。慶應義塾大学総合政策学部卒。子育て、政治経済、時事、カルチャーなど多岐に渡る分野で記事・コラム連載執筆を続ける。欧州2カ国(スイス、英国)での暮らしを経て帰国後、Webメディア、新聞雑誌、企業オウンドメディア、政府広報誌など多数寄稿。2019年より立教大学社会学部兼任講師。社会人女子と中学生男子の母。著書に『女子の生き様は顔に出る』、『オタク中年女子のすすめ #40女よ大志を抱け』(いずれもプレジデント社)。

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