いつの世にも存在し得る 若者の狂気を描く
シネマ歌舞伎『女殺油地獄』は、2018年7月、大阪松竹座での「十代目松本幸四郎襲名披露公演」で上演された舞台をもとにつくられた作品だ。
映像化に際して幸四郎さんはある条件を提示したという。
「映像だからこそできるもの、単純にいえば舞台より面白い作品をつくっていただきたいと申し上げました」
シンプルな舞台中継では決してない、映像作品としてのクオリティの追求。それは「舞台は記録できないもの。演劇の感動は生でしか味わえない」という思いの裏返しでもある。
では、舞台上で展開される物語とは? 簡略に記すと次のようになる。
放蕩の限りを尽くしている油屋の息子・与兵衛が借金の返済に困り、日ごろから親切にしてくれる同業者の人妻・お吉にお金を借りようとするが受け入れられず、結果として強盗殺人を犯してしまうという話である。
「与兵衛はすべてに対して真剣に生きた人。遊んでいる時も悪いことをしている時も、嘘をつく時だって真剣。計画性がなく本能のままに行動しています。それは人としていけないことではあるけれど、そんなふうに生きられたらという願望は誰しもあると思います。そこに与兵衛という人物の魅力があるのだと思います」
遊び仲間とつるんでは日々を愉快に過ごし、仕事はいいかげん、言動は感情のおもむくまま、家庭内暴力も日常茶飯事という、いつの世にも存在し得る不良青年。それが与兵衛だ。
その内面には若者特有の鬱屈と天衣無縫の陽気さとが混在し、幸四郎さんの一挙手一投足にそれが滲み出る。
観客席からは観られない アングルの映像も
幸四郎さんが与兵衛を初めて演じたのは、前名の染五郎を名のっていた2001年6月、博多座のことだった。その舞台は評判となり、わずか3か月で歌舞伎の殿堂である歌舞伎座で再び演じるという快挙を成し遂げた。
以来、与兵衛は幸四郎さんの当たり役。熟成を重ね5演目となったのがこの舞台だ。
「いつか(物語の設定地である)大阪で演りたいと願っていました」
それが適材適所の豪華な配役を得て、襲名披露というおめでたい門出に実現したのだ。
「皆さんにご出演いただけたことが本当にありがたく、そして撮影にご協力くださったことに心から感謝しています」
当たり前の話だが、劇場では購入したチケットに記された席でしか観ることはできない。そして俳優がどんなにいい芝居をしていても、その表情を目にできない瞬間に出くわすのは珍しいことではない。
このシネマ歌舞伎作品では、実際には観ることが不可能なアングルからやレール上を移動しながらの撮影も観客のいない劇場で行っている。
その結果、無邪気なまでに刹那の本心に素直に生きる与兵衛の折々の表情はもちろん、子への情愛ゆえに苦悩する父母の苦しい胸の裡など、物語が内包する登場人物それぞれのドラマが多角的に浮かび上がった。
「純古典の歌舞伎の演出となっている芝居ですから、それを映像のドラマとしてつくっていくのは難しいものがあります。歌舞伎の『女殺油地獄』という素材に映像作品としてどこまで手を入れることができるかという挑戦でした」
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映像作品として手を入れた顕著な一例が、別撮りを行った殺しの場面。
「ここは義太夫の三味線に乗っての様式的な立廻りになるのですが、撮影の際は義太夫なしで行いました。すると、床にこぼれた油ですべる音や息遣いがリアルに耳に届き、何ともいえない緊張感でした。人が人を殺すというのはこういうことなのかと、殺人を疑似体験したような不思議な感覚を味わいました」
身勝手な言い分を押し通し次第に狂気を帯びていく与兵衛。恐怖におののくお吉。幸四郎さんとお吉を演じる市川猿之助さんの圧巻のやりとりが続く。
それを、大胆なアングルから捉えた表情やスロー映像が劇的に盛り上げる。
「映像として効果的な場面になったと思います」
演じ手の体内にインプットされた義太夫のテンポで古典の規範に則った様式美溢れる場面が、映像ならではの細やかさと迫力、臨場感に包まれてひとつの作品に結実した。
演じ手が「どれだけ歌舞伎を演じられるか」に真正面から取り組み、映像のプロがその技術を余すところなく駆使した結果だ。
襲名披露という、十代目松本幸四郎としての一歩を飾った記念碑的舞台は、シネマ歌舞伎というジャンルにおいて記憶だけでなく記録された。
「記録できない舞台が、映像作品として残るものができてしまった。そんな思いです」
幸四郎さんが与兵衛を演じる機会はこの先もあるはずだ。幸四郎さん演じる未来の与兵衛に出会った時、それを観るものの心に、ここに記録された与兵衛がどういう影響を及ぼすのだろうか。
「この映像作品は改めて観た時から時間が経てば経つほど、面白いものになるんじゃないでしょうか」
歌舞伎という伝統芸能もそれを扱ったシネマ歌舞伎も、その面白さは悠久の時のなかで幾重にも増幅し得る、ということだ。
シネマ歌舞伎『女殺油地獄』
2019年11月8日(金)より全国公開
https://www.shochiku.co.jp/cinemakabuki/lineup/42/
文=清水まり
撮影=白澤 正