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「強くて弱かった」ホイットニー・ヒューストンの悲劇【セレブ斜め愛#5】

  • 2019.10.11
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ずっといてほしい人に限って、フッといなくなってしまう

そんな風に去ってしまった人のことほど、いつまでも忘れることができません。セレブの世界から、そういう人を一人だけ選べと言われたら、おばあちゃんは迷いなくホイットニー・ヒューストンの名前を挙げます。奇しくも9月から10月のはじめにかけて、ホイットニーが主演し大ヒットした映画『ボディガード』のミュージカル版が日本でも上演されていて、ホイットニーのことを振り返る機会が多い日々でした。

以前、この連載でマドンナのことを取り上げたときに「マドンナはシンガーというよりはアイコンだから、歌唱力は正直どうでもいい」的なことを書きましたが、それとまったく対照的に、ホイットニーは掛け値なしの「シンガー」であり「ザ・ヴォイス」でした。強さと美しさが同居する、あの声こそが、ホイットニーの本質だったと、今でも確信をもって断言できます。

おばあちゃんがホイットニーの存在に初めてふれたのは、『Saving All My Love For You(邦題:すべてをあなたに)』が大ヒットした1985年のこと。インターネットなんて当然ない時代、東京から遠く離れた片田舎でくすぶっていた学生のおばあちゃんの元にも届いた大波。ホイットニーは圧倒的にキラキラした存在でした。1991年のスーパーボウルで披露したアメリカ国歌は、その後の「スーパーボウルでアメリカ国歌を歌うシンガーたち」に決定的な影響を与えるほどのインパクトがありました。

「ホイットニーの歌声・歌唱力が基準」となるなんて、あとに続く歌手たちにはプレッシャーになったことでしょう。それほどに、アメリカ本国、いえ世界中において、ホイットニーの「声」は絶対的な存在だったのです。

アイコンであり続けることを選んだマドンナは、無茶ギリギリのワークアウトと食生活、そして科学技術を投入して“フレッシュ”で居続けています。フレッシュでなくなった瞬間、最先端であることをやめた瞬間に、アイコンの座からあっという間に転落する…。そのことを、たぶんマドンナは誰よりもはっきりとわかっていると思います。

対して、シンガーであり続けようとするなら、何よりもまず「声」をキープしていかなくてはいけない。その「声」が、年齢的な肉体の衰えではなくドラッグによって衰えてしまったとき、シンガーがシンガーで居続けることは非常に難しくなります。アイコンとしてフレッシュで居続けようとする努力も、シンガーとして声をキープし続ける努力も、結局は壮絶なほど孤独で、厳しい自己鍛錬が必要となります。

「ホイットニー、あのボビー・ブラウンと付き合いさえしなければ…」と思っている人は多いでしょうし、正直に申せば、おばあちゃんもその一人です。

少なくとも「自分をダメにする男よりも、私自身のほうがはるかに大切」と心から思うこと。そして、必要とあらば、自分をスポイルするダメ男にさっさと見切りをつけること…。

この2点が、「人生を自分の力で切り拓いていきたい」と強く願うマイノリティ(マイノリティを“本来同等に与えられるべき権利が与えられていない存在”と定義するならば、世界でもっとも人口が多いマイノリティは“女性”だとおばあちゃんは思っています)にとって、どれほど重要か…。それをおばあちゃんは、ホイットニーの悲劇を通して学んだのです。

ただ、ホイットニーが活躍しはじめた80年代後半は、「ダメ男はさっさと切り捨ててしまえ」的な考えは、決して主流ではありませんでした。むしろ「相手を切れない弱さ」や、「愛(と信じ込んでいるもの)に引きずられてしまう弱さ」が女性の美徳の一つとされていたことを、当時をリアルタイムで生きてきたおばあちゃんは知っています。アメリカにおいて、クールで強い「ビッチ」が褒め言葉になったのも、日本で『そんな彼なら捨てちゃえば?』という邦題になった洋画がヒットしたのも、ホイットニーのデビューからはるかに遅れてからのことなのです。

それに、「愛(と信じ込んでいるもの)に引きずられる弱さ」こそが、ラブソングを歌うときに分厚い説得力を生んでいた、という考えにうなずいてしまう部分もあります。おばあちゃんが昔の人間であることの証明なのかもしれませんが…。

あなたを守るのは、強い自分自身

おばあちゃんはホイットニーが大好きでした。ホイットニーの「声」から放たれるキラキラが大好きでした。

そして、この連載で何度も書いていることですが、同時におばあちゃんは、強さとキラキラが同居している女性が大好きです。願わくば、「才能のある女性たちが、周りのクズたちに搾取されることなく、強気なままで、キラキラなままで、“愛すべきマヌケ感”を誰にもねじ曲げられることなく、生きていくことができる」世の中になりますように。

女性にとって、真の意味の「ボディガード」とは、映画の中で相手役を務めたケヴィン・コスナー的な強い男性ではなく、強い自分自身なのかもしれません。そこからこぼれ落ちてしまったホイットニーを責める気にはとてもなれませんが、せめて、おばあちゃんはこれからも強い自分自身を目指し続けるために自分なりの努力を続けつつ、ホイットニーの歌を愛し続けていこうと思います。

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