1. トップ
  2. おでかけ
  3. 謎すぎる母乳神話…! 戦中戦後を生き抜いた親戚の話がブッ飛んでいた【コソダテフルな毎日 第135話】

謎すぎる母乳神話…! 戦中戦後を生き抜いた親戚の話がブッ飛んでいた【コソダテフルな毎日 第135話】

  • 2019.8.23
  • 53960 views

お盆には実家や義実家に帰省された方も多かったのではないでしょうか。
自宅に戻ってきてまたいつもの日常が始まりましたね!
子ども達の夏休みもあともう少しとなりました。

私が子どもの頃はお盆に数日間、父の田舎に帰省するのが恒例行事でした。


父の兄弟も多いので、たくさんのおじやおばが祖父宅に集合し夜遅くまでお酒を飲んだり話に花を咲かせている中、私たち子どもはいとこたちと戯れながら過ごしていました。

何をするわけでもないのですが、雰囲気だけで楽しいものでした。
家族旅行に行った事がなかったので、唯一家族で遠出した思い出は「おじいちゃんおばあちゃん家」です。

しかし、現在。
我が家の子ども達はというと親戚づきあいはほぼありません。

定期的に会う親戚はわずかに存在しますが、そもそも親戚一同が集まる機会がないですし、人数自体もものすごく少ないので、もしかしたら我が子にとって「親戚」という概念すらないんじゃないかというぐらい疎遠な存在となっています。

それはそれで特に不自由はないのですが、子ども達にとって機会損失しているな~と思うことは、「お年寄りの昔話を聞けない」事です。

いまどきのおじいちゃんもおばあちゃんも若いのでまだまだ現役世代が多いですが、80代以上の方(父や母の姉妹にあたる年齢)の話って聞いた事ありますか?


戦争や、戦後の混乱した日本を生き抜いてきた人達の昔話を聞くって、子ども達にとってだけでなく私たちにとっても貴重な機会だと思うのです。

今から7年前、私の父の初盆の際に実家におじやおば(父の兄や姉に当たります)が集まったのですが、その時の話が私にとってはとても衝撃的でした。

今日のテーマは子育てに関係ありませんが、何十年か前の日本はこんなんだったんだよ~~と子ども達に伝えたくて書く事にします。

あくまで私の親戚の体験談で、戦場に出向いて命がけで帰ってきたとかそういうエピソードではないのですが、戦争の時代に人々がどういう暮らしをしていたかという貴重な体験を聞かせてくれました。


■謎の母乳神話…戦時中のトンデモ話
何故 父(父は戦後生まれ)の初盆で戦時中の話になったのかというと、仕出し料理に入っていた「お麩」がきっかけです。

おじ(愛媛出身)がおば(大阪出身)と結婚した当初、おばがお味噌汁にお麩を入れたんだそうです。

そしたらおじが「麩なんて鯉が食べるもんや!!」とキレたってゆう話から始まったんです。

今の私からしたらお麩は立派な食材のひとつですが、当時のおじからしたらお麩は「鯉の餌」だったんでしょうね。


そこから、鯉の話題になりました。

昔、おじが小さかった頃は家の庭に池があり、100匹以上の鯉が泳いでいたんだそうです。

そして、戦時中には、自分たちは食べるものもロクにないのに、家の中から庭の鯉に麩をやって鯉を愛でたらしく、ここからおじとおばの夫婦漫才かのような掛け合いが始まっていきました。

おば:「自分たちの食べるもんないのに、鯉かわいがっとってわけわからんやろ。ハハハ! 鯉とって食べたらよかったのに。ガハハ」


お…おばよ…(笑)

歯に衣着せなさすぎる…(笑)

おば:「わたしら、鯉食べとったで

がーーーん!笑
大阪では鯉食べていたんだったら愛媛のおじも食べといたらよかったのに。

おじ:「たまに近所の人が『病人がいるから鯉分けてくれ』って来たからあげたりしとったけど」

おば:「昔(戦時中)は鯉の生き血が結核に効くっていわれてたんよ」


鯉の生き血…!?(ゴクッ…)

結核に鯉の生き血が効く…。

今のご時世だったらどこに根拠あんねん! エビデンス出してこーーい! で一蹴される話ですが、当時は生き血で病が治すと信じられていた時代だったんですね。


おば:「私の親戚のお姉ちゃんなんかは母乳の出が良くなくって、お乳が良く出るようにって、鯉の血絞って飲まされてはったで。あんな生臭い血!! かわいそうに」


母乳の出も結核も鯉の血頼み!!
ひぃぃ…。

今なら母乳が出ないなら粉ミルクでぜんっぜんオッケーですが、当時のお母さんにとって母乳が出ないって死活問題ですよね。
本当にワラにもすがる思いで鯉の血を飲んだんでしょうね…。

さらに、おじが自分がひもじくとも愛でていた100匹以上の庭の鯉。

その後、どうなったかといいますと、

おじ:「忘れもせん、小学2年のとき。学校から帰ってきたら、朝までおった鯉が1匹ものうなっててのー。
どうしたんかと思うたら、”よかれん(※)”っつー兵隊のグループが、兵士の食料にするからっつーて根こそぎすくって持ってってしもた」

※旧「海軍飛行予科練習生」の略



ええええ…!!
人の家の庭から勝手に鯉を根こそぎ!!

おじ:「あの時代は、鍋やら金属やら、根こそぎ持っていかれても文句は言えんかったから」


ひぃぃ…。

どうせ根こそぎ持っていかれるんなら、やっぱり食べてればよかったのに…。

おじ:「それが戦争が終わってしばらくして、新しくできたプールに行ったら、そこの池に、うちの鯉がおってのぉ。うちの鯉が泳いどんのよ。フォッフォッフォ…」

何じゃそりゃ!!

鯉、生きとったんかーーーーい!!

それじゃぁ、ただ家からプールに引越しただけじゃん!!

いやいや、そうやって笑って済ませられるのも、混沌としたメチャクチャな時代だったからこそですよね。


■戦時中に盲腸になったら…
おじ:「昔は、何もかもがめちゃくちゃで、適当やったから。医者も役所も適当よ」

おば:「そうよ、戦争中は、盲腸でよう人が死んどったわ」

え!? 盲腸で!?
盲腸で死んでたんですか!?

おば:「よう死んではったで。なんてったって、手術するっつっても、麻酔なんてないから、意識あるまま、お腹切るんやで」

ヒーー!!!!

もう、「ヒー!」しか出てきません。。。

おば:「押さえつけられて生きたままお腹切られて、消毒もなにもないから、化膿したり、術後の回復がよくなくってよう死んではったわ」

切腹じゃないですか!!
こぅっわーーー!!!!

おば:「私の親戚の兄さんも、盲腸になったゆうて、兄さんのお母さんが、リアカーに布団しいて、兄さん乗せて、茨木から、大阪城のとこまで押して歩いて運んどったわ」

ひーーー!!

大阪をご存じない方には分からないかもしれないけれど、茨木から大阪城まで歩く…。
歩けない事はないのでしょうが、、ろくに整備されてない道をリアカーに人乗せて…とても行ける距離じゃぁありません。

おば:「あのお兄さん、どうしはったんやろ。あ、でも、こないだ死んだから、生き残ったってことやろうな。
ガハハ」

わ…わろてる…。

戦時中の話はメチャクチャすぎて、激動の中生きてきた世代の人たちの生命力が凄すぎる!! と、改めて敬意を払ったのでありました。

■戦後復興を支えた人々に感謝せずにはいられない
結局父の初盆なのに、父の話は一切出てきてないことに後から気づきましたが…(笑)


鯉と盲腸の話はこの時の話のほんの一部です。

戦後の、日本全体が復興に向けて伸びていくまさにALWAYS(映画)の時代の話も聞きました。

今私たちが当たり前のように使っているトンネルだったり電線だったり高速道路だったり…。
今整えられているインフラは、昔の方々が必死に汗かいて働いて作ってきてくださったものだと考えると、感謝せずにはいられません(おじの話聞いてたら仕事が過酷すぎました。ブラックどころじゃない)。

いまのお年寄りたちが現在の日本の土台を作ってくださったからこそ、私たちは今こんなにも便利な生活を送れているんだと敬意を表しながら、カーナビ・ETC・Bluetooth搭載の涼しい車でバビューン! とトンネルくぐりたいと思います!

(ほんっと…数十年後の日本がこんなになってるだなんて当時の人達は想像もしていなかったでしょうね)

(オギャ子)

元記事で読む
の記事をもっとみる