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やがて幻になるこの街で「赤いあなたは植物由来」

  • 2019.8.16
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めまぐるしいスピードで開発が進み、日々変化していく大阪の街。 いま目の前にあるわたしたちの街が徐々に幻になっていく光景を、リアルなのに少し不思議な物語で描く。 小説家・磯貝依里による大阪を舞台にした読み切り短編小説連載です。

パシャ。と、予想外に大きな音が鳴り響き、構えていたスマホをあわててスカートの襞(ひだ)に隠し込んだ。
その瞬間、わたしの背後を老婆が衣摺れひとつたてずに通り過ぎていく。
古びた長屋のだらだら並ぶ路上に素っ頓狂な音を響かせてしまったのが恥ずかしく、隠したスマホを握るてのひらにみるみる汗が染み出した。けれど老婆はそんなわたしをちらりと見ることもなく、大量の食材が詰め込まれたスーパーのビニル袋を両手に下げて大阪湾へと向かう道をただひたすら歩いていった。スーパーのビニル袋は今にも破裂しそうなほどパンパンにふくらんでいて、まるで巨大な水くらげをふたつ、海へ運搬している途中みたいに思えた。夏日に照らされてすうっと伸びる老婆のうしろすがたは影さえも後引かずみるみるわたしから離れていき、やがて道の先へと溶け消えた。
さっきまでレンズを向けていた白いプラスティックのひび割れたプランターには葉に黄色い斑点を浮かべた植物がたっぷりと植わっていた。
襞のついた丸型の葉がもさもさと繁っているばかりでまだ花を咲かせていない。ゼラニウムだ。どうせろくに世話などされていないだろうけれど、ほうっておいても植物という生き物は根を下ろす場所さえあれば何とでも育ってくれる。過剰な接触も干渉もない。彼らの生命に対して人間が負うのは、そこに埋めてやった、という半分以下の単純な責任でいい。死に際も軽いもので血も出ないから誰も目を背ける必要もない。色をうしない道端で風になぶられていても、誰もそれが生き物の死体だとは考えない。
おとといまで雨の予報だった朝潮橋の小さな町は、何日和としてもふさわしいような夏の空の色だった。朝からもう何時間も身体を折って道路を這いずりまわっているわたしはひとまずプランターの前を離れ、道を挟んで反対側にある児童公園の車止めに腰を下ろした。
公園の周囲には日灼けた竿が張り巡らされ、そこには、長屋の軒先では干しきれない洗濯物が蝋で固められたように垂れ下がっている。
日陰がひとつもないので太陽の下にいるだけで息が上がる。リュックからお茶のペットボトルを取り出してあおる。硬いお茶の味がまっすぐに食道を流れていくのを感じながら、長屋の玄関脇に打ち棄てられてあるプランターの、ぼうぼうのゼラニウムを遠くから見つめなおす。
スマホには今月の日付だけで約千枚の写真が収められている。
写真はどれも大阪の街に植えられている植物だった。
植えられているといってもどこかの団体によって世話をされている花壇や生垣、育ちのよい観葉植物なんかにはぜんぜん用はなくて、たとえば喫茶店に生え伸びているよくわからないごちゃまぜの蔦のかたまりであるだとか、西成の一膳飯屋の入り口にある、発泡スチロールケースからはみ出した砂利まみれのアロエや玉羊歯、市営団地の一階脇の草むらに大量に積み上げられた植木鉢から咲く乾ききった鶏頭、バーベナ、ベゴニア、モンステラ、そこへだらしなく覆いかぶさるノウゼンカズラ、店同士がもたれかかるようにして建つ生野の細い路地裏の、そこだけ妙に丹精されている朝顔夕顔に夏芙蓉(なつふよう)。室外機の上に置かれた青ネギのプランター。日本橋のシャッター街の裏道にひっくり返っている、素焼きの植木鉢を無表情で侵食していくやたら葉先の鋭い雑草たち。
夢のなかの火葬場みたいだよね。と、知人のヒエダさんは、わたしが話すそれらの光景に感想を言った。
火葬場?
そう。ウチ、小さい頃からしょっちゅう火葬場の夢みるねんけど、そこに出てくる火葬場の周りがいつもあんな感じの小汚いガーデニングで盛られてるねん。
ひと月ほど前の午後、ヒエダさんは彼女の特徴であるうさぎみたいな丸い口もとを嬉しそうにふくらませてそう言っていた。
ヒエダさんの夢のなかに出てくる火葬場は十畳ほどの狭い木造長屋だそうで、床の至る所に煉瓦が散乱しており、そこでふつふつと火種が燻る、天井や窓枠のくずれた見知らぬ家であるらしい。死体は長屋の中央の高く積まれた煉瓦の山に寝かされて、やがて誰かに火を放たれる――。ヒエダさんの夢の話をきいているうちにヒエダさんのみたその夢をわたしもみたことがあったかもしれないという記憶がたちあがる。焼かれると痛いのだろうか。死んでも痛みを皮膚の上に感じるのだろうか。火葬場の入り口のトンチキなガーデニングから何本か花が引っこ抜かれてきて、それと一緒に死体燃やされるねん、いつも。ヒエダさんはなぜだか嬉しそうに笑った。
夢のなかの火葬場みたい、というのは彼女のたとえだけれど、街中にとつぜんあらわれる植物の光景にはわたしもわたしでずいぶん前から着目していて、歩きしなにやたら緑の繁茂する団地や商店を見かければスマホを取り出して画面に目を落とすふりをしながらまるで盗っ人みたいに手早くパシャリとカメラに収めたり、気に入ったスポットがあれば頭のなかの地図にマーキングして近くを訪れた時には必ずそこを通過するように意識をしたり、そんな植物たちの写真を撮りたいというただそれだけのために、大阪の町をタテにヨコに、ひとりでゆらゆら歩き巡るということを時おりしていた。
なぜなのかはまったくもってわからないのだけれど、大阪には野暮な植物が妙に多い。

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夏はテンアゲ。
火葬場のヒエダさんと千日前のホットケーキ屋でお茶をして別れ、舌に残ったメープルシロップの味がとても心地よいのでそのまま良い気分で帰ろうと思ったのに途中で心斎橋のあまりのひとの多さに吐き気がこみ上げてきて、なんとかマクドに滑り込んだら、入り口付近のスツールに座っていた女子高生たちがそんなことを言い合ってキャッキャとはしゃいでいた。夏はテンアゲ。気分上々。町の蔭でひたひたと生い繁るあの珍妙な後ろ暗い植物たちも今が一年でいちばん生死のピークだ。わたしはズズッと水分補給のアイスコーヒーをすすり込み、それでこの夏の週末はぜんぶ、大阪じゅうの町を歩いてスマホのカメラで植物たちを撮影することにきめた。
カメラロールを確認すると、さっき慌ててレンズを向けたゼラニウムはいくら加工しても無駄そうなほどにピンボケしていた。
撮った写真を何かにつかう予定はとくにない。

2019 05 26 13 16 37.606

トリデさん、トリデさん。クマがやばい。
月曜日、勤め先である京橋のデザイン会社の休憩室でテイクアウトの生臭い牛丼にポン酢をぶっかけて掻き込んでいたら、隣に座っていたアガツマさんがわたしの顔を覗き込み眉をひそめた。ちゃんと寝とる? 食べとる? いや、いまちゃんと食べてます、牛丼。せやねんけど、それぜんぜん栄養ないで。
アガツマさんはデスクチェアからおもむろに立ちあがり、共用のスタンドミラーをわたしの顔の正面にすべりこませた。鏡にはもったりと重いクマを浮かべた青い顔の女がいて、確かにこちらを見つめ返している。
わたしたちのデザイン会社には社長をふくめて四人しか人手がない。デザインするのは大阪府内で営業しているピンサロやおっぱぶ、ホテヘルやソープといった風俗店のパネルやフリーペーパーが専門で、カメラマンと編集をやっているアガツマさんはわたしと同い齢の三十歳、社長の縁故採用、一方わたしは数年の無職を経てのちにハローワークを通して契約社員の経理事務に応募した。
バンパクや何やで一斉に駆逐されてくからもうこの業界はつづかない、と社長は毎日のように愚痴をつぶやきながら事務所でタバコを吸っていくけれど、同時に、誰にどんだけ取り払われても懲りずに街の隅にヤラシイ看板貼りつづけるんがボクらの仕事や、ぜったいに共存させたるからな。とも意気込む。
トリデさんのクマ、まじでヤバすぎてなんだか痛々しい。
アガツマさんはひとの肌に触れるのがうまい。会社では営業を担当しているヨシザワくんの話によれば週末の土日、アガツマさんは派手なピンヒールを気高くカツカツ打ち鳴らし、自らも風俗嬢としてSMクラブに出勤する。梅田にあるそのSMクラブでアガツマさんがどんな名前で働いているのかは会社で制作している夜遊び専門フリーペーパーの巻頭グラビアで知った。夜の衣装を身に纏ったアガツマさんは、花にたとえてみれば色鮮やかで額の鋭い極楽鳥花のようである。女王様すがたのアガツマさんに指で背すじを撫でられるとそのあまりの気持ちよさにどんなオヤジでも豚みたいな声で鳴いてよろこび股間から謎の汁をびるびる滴らせると聞く。と、ヨシザワくんはわたしに教えてくれた。
「心配なるからちゃんとケアして。寝る食べるは必須、豆乳とキレートレモンを毎日一本ずつ飲んで、それからアイクリーム塗らなあかんよ。あんたもうちと同じでもう三十やろ。ちゃんとせなクマがほっぺのほうまで下りてきて、ついでにシワはあっというまに拡がるし、いずれ毛穴に飲み込まれて死ぬから」
毛穴に飲み込まれて死ぬ。
復唱しながら想像してみる。
「そう、毛穴がブワァーっとなるから。こないだ撮った風俗嬢なんてまだ二十五歳くらいやのに毎日飲んだくれのあかん生活しよるから肌がぜんぜんだめ。それこそ毛穴に飲み込まれて死にかけやったから、うちがどんだけ修正かけてあげたか」
そう言ってアガツマさんは付箋だらけのデスクに近づき、先週納品したその〈ゆうか〉というぽっちゃり肥った風俗嬢のパネル写真のデータをひらいて見せた。
〈ゆうか〉は赤色のシフォン地の下着を身に付けていた。その赤色が彼女の浅黒い肌とどうにも馴染んでいないのでなんとなく違和感があった。密度の高い付け睫毛をつけていたけれど、重ったるい一重まぶたがそれをすっかり台無しにしてしまっている上に無理やり二重幅にしようとしたらしい糊の線がぴかぴか光っていてとにかくだらしなかった。全体的に肌にハリがなく、とくに団子鼻の鼻翼にはゆるんだ毛穴が目立って見えた。胸はFカップ以上あるのだと思う。膨張、という言葉がたるんだ毛穴と脂肪層のあいだから滴り落ちてきそうだった。
「これが修正前、ほんでこっちが修正後」
つぎの画像ファイルがアガツマさんによって開かれるとその瞬間、デスクの周りがぱっと鮮やかに明転した。
人工的に明度彩度を上げられた〈ゆうか〉はまるで別のいきものであるかのように輝きに満ち満ちていた。というよりもぶつぶつと粟立っていた毛穴や肌のゆるみが強烈な光によってくまなく消し飛ばされてマスカラの塗られた目の周り以外は光そのものみたいになっていたから、観察すればするほどになんだかその印象が平坦な光のなかへばらばらとほどけていってしまうようだった。
「そうだ、トリデさんに良いフェイスケアのお店教えたげるわ。とりあえずは入門篇のブランドやからそんな高いやつではないよ」
その牛丼七回我慢したらアイクリームが買えるくらいのお店。アガツマさんは微笑み、わたしにはちょうどいいというそのブランドを扱っている店の場所を手早くLINEで送ってくれた。
休憩を終えたらあっというまに退勤の時刻になったので、それじゃお先です、とパーテーションのドアノブに手を掛けた。明後日の広告撮影の打ち合わせで受話器を肩と首で挟んだままのアガツマさんはわたしに手を振った。
か・な・ら・ず・行っ・て・よ。と、彼女のくちびるが声なしで動いた。
事務所のあるマンションを出てJR京橋駅へと向かう。
ラブホテルの密集する細かな路地をよくよく見やれば、仕事中の風俗嬢と思しき黒いトートバッグを手にした女たちが電柱に生えたコケのように至る場所で見え隠れしている。太陽がグランシャトーの先端に引っかかっている。その斜陽をまともにかぶって菊がひと鉢立ち枯れている。枯れた菊の花の横を通り過ぎる瞬間、肉厚な熱帯植物を思わせる香水の香りがふいにひるがえって振り返ると、香りとは正反対なイメージの物静かなホテヘル嬢がゆったりした笑みを浮かべながらわたしの脇をすり抜けて、サラリーマンの腕に絡みつきホテルのなかへと吸い込まれていった。

Unnamed

入浴後のほてった身体の前に買いたてのスキンケアグッズをお供え物みたいにトントントンと並べていったら、まだひとつも使ったことがないというのにもうすでに自分が極上のぷるつや肌を手に入れたかのような気分になってとても興奮した。
アガツマさん推薦のスキンケアコスメ用品店はJR大阪駅に隣接する高層のショッピングモール・ルクアの五階中央、エレベーターを上がった目の前にブースがあったのですぐにわかった。チョコブラウン色に統一されたミニマルな店内。清潔感と都会らしさに溢れた細い明朝体の店名看板がスポットライトに照らされて、その下に並ぶケア用品は、細明朝体というフォントが現物のアイテムとして触知できるようになったならきっとこういうふうに具現化されるのだろうという、洗練されたパッケージデザインだった。
いらっしゃいませ、ではなく「こんにちは」と店員が爽やかに声をかけてきた時、わたしは売れ筋商品であるらしい豚毛使用のウッドヘアブラシに見入っているふりをして緊張を飲み込んでいて、そんなわたしに「ギフトですか?」と、〈kanami〉と刻まれた華奢なアルミ名札を付けた店員はにっこり微笑み首をかしげた。
ギフトかと問われたら確かに自分のためのギフトではあるな、と逡巡しているうちに〈kanami〉はそのヘアブラシの値段の安さや日常使いのしやすさ、ウッドのカラーはメープルとグレーとモカブラウンがあることなどをてきぱき説明し、そうこうするうちにわたしはその売れ筋商品の豚毛ウッドヘアブラシを買うことになってしまっていて、じつは顔のスキンケア用品を求めてきたのだとようやく言えたのはヘアブラシを包んでもらい「お出口までお持ちしますね」とお辞儀をされたそのあとで、あの、アイクリームがほしくて、と目を泳がせるわたしに〈kanami〉はパッと表情を輝かせると、ご案内します、と言ってふたたびわたしを細明朝体のミニマルな店内に導いた。
トラベル用の細いチューブに入った歯磨き粉みたいな三千五百円のアイクリームには、特別な蒸留方法で抽出されたエッセンシャルオイルが使われているという。
「わたしたちのブランドのケア用品はすべて植物から得られるエキスを原料としておりましてオーガニックコスメは保ちが弱いとおっしゃる方もいらっしゃるんですけれど肌理を整えたり根本からの柔軟さがほしいという方にはやっぱり植物由来の成分が一番ですし、ナチュラルな香りはどんな人間にも安心感と安全をもたらします」
〈kanami〉はわたしの手の甲にアイクリームをつやつやと塗り込んだ。鼻腔に持っていくと、バラの花びらを大量の水で希釈したようなささやかな薄い匂いがした。
「それはゼラニウムです」
〈kanami〉はその匂いそのもののようにシンプルに微笑む。
「ゼラニウムはどの植物の精油ともひじょうに相性がいいと思います。大体の商品に用意されている香りですのでライン使いしていただくと統一感がありますし、たとえばフェイシャルのアイテムだけゼラニウムにしてハンドローションはラベンダーやジャスミンにローテーションで変えていただいたりすると飽きがきにくいですし集中力も上がります」
〈kanami〉はひじょうに流暢だった。
これは化粧水を付ける前のブースターです、と彼女が説明してくれた点眼薬のような容器入りのバランス用フェイスオイルを、わたしは湯上がりの顔に両手で染み込ませた。ブースター。末端冷え性のわたしは二時間近く長湯したあとでも一瞬で手足がひんやり凍りつく。オイルのつぎはハーバルソフティングローションと書かれた化粧水をひたひたと揉み込み、そこで一旦洗面台の鏡に立って、ハーバルエッセンシャルシートマスクを顔にぺったり張り付かせる。白いコットンの濡れたお面を付けたわたしはクッションを引き寄せて仰向けに寝そべる。眠ってしまってはいけないので十五分後にアラームをセットしてある。ピピピ、とアラームが鳴ればシートマスクを剥がし、ハーバルモイスチャーナイトクリームと名付けられている、こっくりとした触感のこれも白いクリームを顔全体に薄く塗る。そうして最後にハーバルアイクリームを目の周囲に擦り込んで、なかゆびを使い入念にマッサージする。うるおいに蓋をする、と〈kanami〉が言っていた言葉そのものを毛穴のひとつひとつに塗り込むように、ゆっくりゆっくりクリームを伸ばしていく。
最低限これだけあれば肌はきちんと育ちます。と、〈kanami〉が出してくれた五種類のケア用品を無事顔に塗布し終わり、わたしは大きく息をついた。
どのケア用品のラベルの裏側にも周囲の説明文よりもひと回り大きな字で〈植物由来〉と記されている。とろとろに潤った顔の肌をおやゆびで押して確認しながら電気を消してふとんに潜ると、薄いタオルケットに包まれた自分の身体が細明朝体のゼラニウムの香りに発光していた。
ケア初日だというのにもうすっかり顔の肌が肥沃な土台に変化していると思った。全身から活力のような何かが染み出してきているのを感じた。毛穴という毛穴にスコップでゼラニウムの種を埋めている夢を見そうだと思ってまぶたを閉じたのに、その夜はぜんぜん関係のない夢を見た。

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まずは職場のある京橋界隈。それからキタは兎我野や中津あたり、方向をくるりと変えて大阪湾にほど近い弁天町や朝潮橋を回って、新今宮や天王寺、西成をうろつき、さてつぎはどこへ撮りにいこうかと考えたらそういえばミナミがまだであるのにはたと気づいて、七月の最初の週末は心斎橋から日本橋にかけて街中に繁茂する植物をスマホに収めることにした。
外出の日はいつも晴天にめぐまれる。すがすがしく晴れる。というよりもこの夏はまだ一度も雨をみていない。ミナミ一帯は恐ろしいほどの人波で、一昨年あたりから急増した外国からの観光客がみな何気ない風景にスマホやカメラのレンズを向けているから、わたしがひとりしゃがみこんで裏路地の飲み屋の室外機に穴だらけのジェンガみたいに積まれている発泡スチロールの植木鉢をバシャバシャ撮影していたって誰も怪訝に思わない。
シャッターを半分下ろしたまま商っているのかいないのかまったくわからない状態でもう一年ぐらいが経とうとしている小さな中華屋の入り口にも、枯れかけの葉にまみれてゼラニウムが植えられている。ほんとうにどの街のどの裏路地にも咲いている花だと思う。
胸のあたりでスマホをもてあそびながら心斎橋のひとの流れに乗って日本橋へと歩いていく。うつむいて進んでいたらすぐに誰かとぶつかって、ボコボコ果てしなくふくれ上がる観光客たちに圧倒されて距離感がまったく掴めない。
顔を上げればきのうまで日本人しか歩いていなかった場所にまでさまざまな人種の観光客たちが流れ込んでいてもうずっとずっと以前からここで生きていたのだという当たり前の表情で行き交い、大量の買い物袋を抱えて家族や友だちを手招き、写真を撮っている。寿司のプラスティック皿をLサイズピザみたいに片手にのせてそれをつまみながら中国人の大家族が道具屋筋の商店街に鍋かたこ焼き機を買いにいこうとなだれ込む。道頓堀や道具屋筋の巨大看板などのわかりやすい撮影スポットだけでなく、金龍ラーメンの毛羽立った畳席であったり、ユニクロのショーウインドウであったり、あるいは天高く工事シートをひるがえしている改装中の百貨店のその様子までも、観光客たちはスマホのカメラレンズのなかへ貪欲に収めようとする。
完成図などはじめからどこにも掲げられていないような軽薄さで大阪の街は確かに変わっていく。皮下組織の細胞のうごめきの底で誰かが誰かを呼ぶ声をあげるその度に、小さなタンパク質の塊がぱちんとはじけて街の細胞がいれかわり、それがひたすら繰り返されてやがて何百年何千年と時が経つ。その証拠にふと視線を落とせば道端の至る所で大きな埃が舞っている。再生を遂げるつもりもない街のその下であらゆる人間が再生して混ざり合いうねる。
かつてわたしの友だち全員がやたらと利用するためにみんなの笑い種になっていた老舗のラブホテルが潰れて『千と千尋の神隠し』の湯屋みたいな鳥居のあるピカピカしたべつのラブホテルになっていたから、思わず笑いが込み上げてきて友だちみんなに大声で知らせてやりたくてたまらなくなる。けれどその朱色の鳥居の前でふりかえると、もう何百年何千年も前に、そのわたしの友だちはみんなどこかに溶けて消えてしまっているのだと気づく。
地下茎の栄養で繋がっているみたいにみるみる増殖していく観光客向けのドラッグストア。
新陳代謝をくりかえす大阪の街はもうほとんどサイバーパンクの光景だ。
勤め先の会社が制作した風俗の看板は貼れる場所を失ってもまたべつの場所にすぐさま取り付けられる。
裏手の月極駐車場のエメラルドグリーンの柵の下にもまた、ゼラニウムが植わっている。街の陰にこびりつくように繁る植物たち。それを人間が世話している瞬間を、こんなにも撮影しているのにわたしはまだ一度も見たことがない。

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堺筋と千日前通の交わるあたり、相生橋筋商店街から北側の路地へ入り込み、会社で広告を提供したセーラー服着用箱ヘル店のある坂町の裏通りを抜けて行こうとしたら、こんもりと背中を丸めた女が道のまんなかにしゃがんでいた。
その様子がなんとはなしに可笑しかったので、シャッター音の出ないアプリを起動して画面をいじるフリをしながらレンズを差し向け写真を撮ると、ねえ、と声をかけられた。
「おねえさん、ライター持ってへん?」
わたしはバッグを探り、あと数本しか残っていないタバコの箱とライターを差し出してやった。メンソールのピンク色の箱を見て女は眉をひそめた。
「タバコせびってるように見えた? ごめんな。こっちだけでええよ」
女はシュッとライターだけかっさらい、二、三度手もとでカチカチ鳴らすと何のためらいもない素早さで箱ヘル店の路地に並んでいる植木鉢のひとつに火を点けた。女に摘まみ上げられた葉が燃える。つやつやのオリヅルランの葉の上を切っ先みたいに細い炎がすべっていった。女の顔はどこかで見たことがあり、ぴらぴらの赤色のセーラーの向こうで気怠げにうつむいているその頰と鼻翼、その脂っぽくひらいた毛穴を見た瞬間、もしかしたらいまわたしの目の前にいるこの女は、以前アガツマさんが広告撮影していたあの〈ゆうか〉なのかもしれないと思った。
結んだそばからほどけていくようだった彼女のぼやけた顔の印象は、日が経つうちにさらにほどけてどこかに消えてしまっていた。それでもこの女がもしも〈ゆうか〉だったら、という妄想が目の前でオリヅルランを焦がしていく火のスピードよりも速くわたしの脳内を駆け巡り、わたしは〈ゆうか〉の隣に同じように腰を下ろす。風俗店や飲み屋、定食屋の乱立する坂町の裏通りにまで時おり観光客の影がすうっと横切り、その影を追うように、酒屋の裏口で飼われているにわとりの群が網の中でギャッギャッと騒ぎ出す。

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「それ、放火じゃないですか?」
そうわたしが訊くと、〈ゆうか〉は、かもね、と赤色の丸い肩をゆらした。
「たまにね、こんな感じでいろんな街の植木鉢に火点けてんの。ストレス発散」
〈ゆうか〉は雑草だらけの三つの植木鉢に手際よく点火していき、炎に飲み込まれて葉が黒くよじれると、近くに落ちていた酒瓶で熱くなった土を掘り起こし掻き混ぜて鎮火させた。
話すことなどとくにないはずなのに店の制服すがたで火あそびしている〈ゆうか〉が気になって、わたしは地べたにあぐらをかきタバコを咥えた。暇を噛み潰している彼女の顔の向こう、焼けてチリチリにくたばっているオリヅルランの鉢にスマホを向けてパシャ、といつものように一枚撮影したら、おねえさん、死体愛好写真家? と笑われたので、かもね、と笑い返し、それかガーデニング愛好写真家かも。と青い空の遠くのほうに目をやった。
風俗店脇の焦げた植物の死体はとてもよく撮れていた。全面ガラス張りの天を突くビルが日をうけて、というよりもそれ自体が強く強く発光しているかのように輝いていた。日焼け止めのクリームは入念すぎるほどに塗り込んできた。半月前にアガツマさんに教えてもらったあの梅田のスキンケアコスメ用品店にわたしはきのうまた行って、きのうは〈kanami〉はいなかったのだけれど彼女と同じような雰囲気を纏った店員に夏のスキンケアコスメ一式を見繕ってもらったのだ。
普段あまり化粧に頓着しないくせに、アガツマさんに言われて始めたスキンケアにはいつのまにか夢中になっている自分がいた。毎朝毎晩てのひらを駆使して顔の皮膚に液体をやわらかく染み込ませる度に細胞の育ちと入れ替わりを感じ、薄眼で宙を見つめながら頰にあてたてのひらを思う度に自分自身が「ハーバル」という言葉そのものにしだいに形を変えていくような気がした。スキンケアってガーデニングに似てますよね。手を使って大事にせっせと育てていくその感じ。と、商品の紙袋を受け取る時にわたしがぼんやり同意をもとめたら会計カウンター越しの店員はきょとんとしていたけれどたぶんわたしの言いたいことは伝わったと思うし、もし店員がヒエダさんかアガツマさんだったら間違いなく頷いてくれていたと思う。
「ねえ、おねえさん、それどないしたん、雑菌でも入ったん?」
ふいに〈ゆうか〉が振り返ってわたしの顔を指差した。
え、と手を頰に持っていくと、見てみ、と〈ゆうか〉はわたしの腕を引っ張って酒屋のガラス戸の前に連れていって、覗いてみればわたしの鼻のあたまにはいつのまにか巨大な赤いニキビが膨らんでいた。
「ひどいねえ、跡になるわこれ。たぶんしこりニキビやもん、根が深い」
彼女に指摘されるまでわたしはニキビの存在にぜんぜん気がついていなかった。指摘されたその途端鼻のニキビはみるみる熱を持ち、顔じゅうに痛みがひろがっていった。さっきまで自分の肌に馳せていた愛おしさが、たちまち叩き割られて地面に砕け落ちていくようだった。
いずれ毛穴に飲み込まれて死ぬ、というアガツマさんの言葉が思い浮かぶ。
「どうして急にニキビなんか。スキンケア、頑張ってたのに」
わたしの瞳に動揺の色がうるんだのを〈ゆうか〉は目敏く感じとった。
「どんなに毎日ケアして整えとっても、こういうのぜったいにできるもんやって。できるほうが健康やわ、気にせんとき、おねえさん」
〈ゆうか〉はわたしの指から焦げかけのタバコを抜き取るとヒョイッと棄て、ほほ笑み、それはとても明るい笑顔だったのに彼女の顔はその時もやっぱりわたしの眼裏で確かな像を結ぶことなく、まるで街の陰に植えられている雑草だらけのよくわからないプランターを、意識しなければたやすく通り過ぎてしまうあの瞬間みたいだと思った。どんなに美しく整頓されて変わっていってもあの小汚いガーデニングみたいなやつはぜったいこの街に存在しつづけるよ、とにやにやしながらジュースを啜っていたヒエダさんの、ぷっくりと膨らんだ口もとが記憶のなかに蘇った。
しばらく何も塗らんほうがええわ。〈ゆうか〉はライターだけを返してきて、やっぱりこれもらってっていい? とわたしのタバコを軽やかにひったくり、安っぽい赤色のプリーツスカートをひるがえして箱ヘル店へつづく狭い玄関階段を上っていった。彼女の両手にはいつのまにかぱんぱんに何かを詰めた白いビニル袋が下げられていて、いつか朝潮橋の町で背後を通り過ぎていた老婆のそれと同じだったから思わず追って声を掛けようとしたら彼女はもうとっくに階段をのぼりきり店の中へと戻ってしまっていて、水くらげみたいなビニル袋もどこにもなくて余韻じみた湾の潮の香りがするような気がしたけれどそれは近くの定食屋から流れてくる薄いスープのにおいだった。
ひとり路地裏に取り残され、さっき撮ったはずのしゃがんでいる〈ゆうか〉の写真を確認したくてスマホのカメラロールをひらいてみると、ブレてピンボケしたゼラニウムの花が画面いっぱいに咲いていた。
赤いまるい花房が、雑菌だらけの皮膚の上で唐突にはじけた腫れたニキビみたいに見えた。さっき覗いた酒屋のガラス戸のなかでわたしのニキビがいまにもはじけてしまいそうに腫れて笑っていた。腫れた赤色はじくじくした痛みとともに顔じゅうに拡がっていきやがてそれがパチンとはじけ、自分が言葉もなにもかも失くしてこの路地に根を下ろす花になるところを想像していたらそのまま硬い茎になってしまったのか全身が動かなくなりいつのまにか真っ赤に変化していた髪の花びらがふわふわと揺れた。手が緑色の葉となった。わたしの身体はみるみる路地に根を張っていくけれど、どうしてだかふいに思いついて力を振り絞り握りしめていたライターを顔の前に持っていった。ニキビを焼いてみたところで皮膚がケロイドになりみすぼらしく引き攣るだけだ。なくなりなどしないというのに。赤く腫れた肌を焼く小さな炎。火葬場の炎。整えた肌の焼かれるにおい。小汚い植物の死体。うすいうすい赤いにおい。何もしないほうがいいと〈ゆうか〉は笑って言っていたけれどそれよりも紫外線を避けながら早く帰って洗顔して、やわらかなクリームを塗り込みたい。
パシャ。と、さっき〈ゆうか〉がやっていたみたいにライターのスイッチを押してみると、まるでシャッターのように点火音が大きく響き渡った。と同時に、スマホの丸いカメラレンズをこちらに差し向けている知らない女の気配がしたと思ってその瞬間、わたしの両脚はもう完全にアスファルトのひび割れのなかで根を張りつくしそれからはもうどうしたって動かなくなってしまった。

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