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アメリカ人女性初の宇宙飛行士、サリー・ライドの生涯。【ジーン・クレールが選ぶVOGUEな女性】

  • 2019.7.24
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アメリカ人女性初の宇宙飛行士、サリー・ライドの生涯。【ジーン・クレールが選ぶVOGUEな女性】
2019.07.20 10:00
アポロ11号がニール・アームストロングとバズ・オルドリンを乗せて宇宙に旅立ち、人類初の月面着陸を成功させたのは、1969年7月20日のことだった。それからちょうど50年──。今回は、アメリカ人女性として初めて宇宙飛行士となったサリー・ライドの生涯にフィーチャーする。宇宙研究に人生を捧げ、世界中に夢と希望を与えた彼女の生涯と、彼女が決して明かさなかった秘密について、ジーン・クレールが振り返る。


アメリカと(当時の)ソ連が宇宙開発で覇権を競っていた時期に子ども時代を送ったせいだろうか。私はアメリカ人女性初の宇宙飛行士、サリー・ライドに格別の思い入れがある。私の世代なら誰もがそうだろう。頭脳と才能、カリスマ性を兼ね備えた彼女が宇宙へ向かったのは、32歳の時のことだった。


宇宙飛行士として第一線で活躍した後は、学者として多くの宇宙関係の審議会にメンバーとして名を連ねた。そして、NASAを離れたのちはカリフォルニア大学サンディエゴ校で物理学教授を務めるなど、宇宙の神秘に生涯を捧げた人物である。

アメリカ人女性初の宇宙飛行士への道のり。


プロテスタントの両親のもとに生まれたサリーは、幼少期より優れた運動神経の持ち主だった。テニス選手としてもランキングに入るほどの実力を誇っていたが、突然の方向転換で宇宙飛行士の道を選択することとなる。もし彼女がその選択をしていなければ、以前フィーチャーした、ビリー・ジーン・キング並みのテニスプレイヤーになっていたかもしれない。


サリーの宇宙飛行士への道のりは、当時通っていたスタンフォード大学の大学新聞に掲載されていた、NASA主催の宇宙飛行士のトレーニングプログラム募集広告から始まった。そのプログラムには8000人を超える応募者が殺到し、その中から、たった35人が宇宙飛行士候補生が選ばれた。サリーもその内の一人だった。彼女の同期にはエリソン・オニヅカ(アジア人初の宇宙飛行士)やギオン・ブルフォード(アフリカ系アメリカ人初の宇宙飛行士)など、多様性にあふれたメンバーが集まっていた。


彼らが参加したトレーニングプログラムは、宇宙環境研究やロボットアームの操作など、あらゆるスペースシャトルの運用全般を学ぶ、過酷なものだった。サリーは1979年にその研修を終え、「ミッションスペシャリスト」の資格をゲットし、晴れてNASAの宇宙飛行士になったのだ。


アメリカ人女性として偉業を成し遂げたサリーは、すぐさま多くの人から賞賛を受けたが、同時に批判する声も少なくなかった。女性であることを理由に彼女をおとしめようとする、ネガティブな意見もあったのだ。しかし、自分自身を「宇宙開発プログラムのメンバー」と呼び、あくまで宇宙飛行士の1人だという立場を貫いた。そして1983年6月19日、スペールシャトル・チャレンジャー号の打ち上げにより、彼女は史上初めて宇宙を旅したアメリカ人女性となった。 


この日の打ち上げを多くの人が見守った。そのなかには彼女の名前にちなみ、ウィルソン・ピケットのヒット曲「ムスタング・サリー」の一節を引用した「ライド、サリー、ライド(Ride, Sally, Ride)」と書かれたTシャツを着ていている見学者もいたほどだった。


サリーは2回のスペースミッションに参加し、合計300時間以上を宇宙で過ごした。1986年には3度目のミッションに搭乗する予定だったが、同年1月にチャレンジャー号爆発事故に見舞われたため、叶わぬこととなってしまった。この事故を機に、サリーは現役宇宙飛行士を退き、事故調査委員会のメンバーとなった。その後の2003年コロンビア号事故でも調査員を務め、彼女の宇宙飛行士としての経験は事故原因の解明に大いに生かされた。 


こうした功績から、彼女は今では宇宙飛行の権威として広く認められ、全米宇宙クラブのフォン・ブラウン賞を含め、多くの賞を授与されてきた。その中でも彼女が何より喜んだのは、テキサス州とメリーランド州にある2つの学校に、自らの名前が冠されたことだ、と私は思っている。


NASAを退社した後は、母校であるスタンフォード大学とカリフォルニア大学サンディエゴ校で非常勤講師を務めたり、自ら出演するサイエンス番組の制作を手がけることとなる。また、教育絵本も出版するなど、勉学に熱心だったサリーにとって自身の名が学校名の由来となるのは、どんな表彰よりも意味のあるものだっただろう。

生涯、プライベートを守り抜いた理由とは。


並外れた実績を残し、宇宙飛行士を退いた後も著名人としてメディアで活躍した彼女は生涯、自らのプライベートについては沈黙を貫いていた。2012年に61歳の若さで亡くなったサリーは生前、すい臓がんと診断され、治療を受けていたのだ。その事実を明かすことなく、静かに眠りについた彼女はもう1つ、大きな秘密を抱えていた。それは、自身のセクシュアリティに関することだった。


サリーは27年にわたり、サンディエゴ州立大学教授のタム・オショーネシーを同性のパートナーとしていたことが、死後にタムによって明らかにされた。幼少期にテニスを通じて出会い、科学に対する愛で結ばれ、長年に渡り献身的に支え合った2人の関係は、究極のラブストーリーだったが、生前は公にすることはできなかった。おそらくは自らのキャリアへの影響を恐れて、伏せていたのだろう。

価値観に変化を促した、偉大なる女性。


長きに渡り抱えていた秘密が公になってからも、サリーは宇宙に関する第一人者としてだけでなく、アメリカンアイコンとして多くに親しまれ続けている。ビリー・ジョエルの1989年の曲「ハートにファイア」や、その名も「サリー・ライド」(2013年)というジャネール・モネイの曲にも、彼女が登場し、その偉業が称賛されているのだ。


世の中の掲げる価値観を称えることが難しい、今のような時代においても、このような素晴らしい女性がいたと思うと、私はアメリカ人として誇らしさでいっぱいになる。サリー・ライドは私たちに宇宙の素晴らしさを物語っただけでなく、この世界に対する見方を変え、その価値観にも変革を促した、真に偉大な人物なのだ。

Gene Krell

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