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【TAO連載vol.10】アメリカにおける肌の色、日本における肌の色。

  • 2019.6.25
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先日ある雑誌の撮影で日本に帰国する機会があった。

ほぼ全員日本人のスタッフだったが、唯一メイクアップアーティストだけがパリから来たフランス人の方だった。

早朝から準備を始め、予定していた時刻になりみんなロケバスに乗り始めた時、誰がバスに乗っていて誰が乗っていないのかを確認しようとしていた人がいた。

まだ学生のインターン、新入社員、もしくはたまたま手伝いに駆り出されていたスタイリスト志望らしき若い女性は、周りを見渡したのち、「黒人の人がいないです」と言った。

私は次の瞬間、極めて穏やかに、そして笑いを含みながら言ったつもりではあるが、「いまなんて言った? それはないでしょう!!」と彼女に向かって大きな声を出していた。

そのフランス人の方は黒人であった。だけどその撮影の現場には「黒人の人」として来ていたのではなく、「メイクアップアーティスト」として来ていたのだ。当日駆り出された若い女性は撮影クルーの名前が載っているコールシートと呼ばれるものを貰っていたかどうかはわからないし、アーティストたちの名前は把握していなかったのかもしれない。けれど「メイクさんがいません」とか、誰が何の役割かわかっていなくても、せめて「外国人の方がいません」とは言えなかったのだろうか。

ここまで読んでいただいて、「何がおかしいの?」と思われる読者の方々も多いかもしれない。というか大多数の日本人がその場にいたら彼女と同じ方法でまだバスに乗っていなかった人のことを説明しただろう。

島国であり、人種が多様でない日本では、いまだに人を人種や肌の色で識別し、それを口に出すことが普通なこととされている。テレビなどでも無意味に多く使われていたりする。私もアメリカに住む前はそうだった。

アメリカではそれは良しとされない。そこにいない誰かを説明する時に、特にそれが黒人の人々であった場合、肌の色でその人の特徴を述べることは避けようとするのだ。

たとえば前述したように、バスに乗っていないのが誰かを説明しようとする時、「メイクさん」から始め、相手がピンと来ていなかったら「フランス人」、それでもわからなかったら「帽子を被っていた背の高い人」などと説明し、それでもどうしてもわからなかったら最終手段として「ダークスキンの人」などという言い方をしたりする。

特に最近はブラックという言い方も好まれず、アフリカンアメリカンという言い方をする。(これについてはまた色んな意見があるので深い話はまたの機会に)

日本人の感覚からしたらもどかしいだろう、なぜ先に決定的に識別できる肌の色で説明しないのだろうかと思うかもしれない。ヨーロッパの人たちも日本人と似たところがある。でもアメリカではしない。少なくとも私の周りのグローバルシティズンたちはしない。

global citizenとは、世界中には色んな国や文化があり、その違いに敬意を払い行動している人、次世代のために良い環境を作っていこうと志す人のことを指す。残念ながらアメリカ人全員がグローバルシティズンであるわけではなく、そうでない言動を聞くと、嫌悪感を抱かずにはいられない。

ではなぜ「黒人」という説明の仕方を避けたほうが良かったのか。

それはお気付きであろうが、アメリカで長い間続いている人種差別に過ぎない。とてもデリケートで深い問題なので、私の乏しい経験と筆力ではとても書ききれないが、断言できるのは、アメリカの黒人差別は決して昔起きた歴史上の話だけではなく、今日も続いている悲しき事実なのだ。

もちろんアメリカの白人が全員人種差別主義者なわけではない。そうでない、グローバルシティズンたちが(そういう人たちが大多数だと思いたい)、他人を肌の色で区別するのではなく、同じ人間としてその人の性格だったり、職種だったり、風貌だったりというところでその人を認識しようという行動に出ているのだ。

ここまで読まれて、「でも黒人さんは事実肌が黒くて、それを無視することのほうが不自然じゃないか。差別だ差別だという人が差別主義者なんだ」と思われる方もいるかもしれない。

肌の色を無視しているわけではない。その人を思い出そうとする時、たとえ名前を覚えていなくても、顔立ちをはっきり思い出せなくても、どの人種か、肌のトーンはどのくらいだったかを忘れることはない。そのくらい人は無意識に肌の色を情報として認識している。

ただそのせいで奴隷制度廃止後も黒人の人は白人と同じバスに乗れなかったり、同じトイレを使えなかったりという残酷非道な歴史を持つアメリカは、他の国々とは違い慎重になるし、肌の色に触れることは避けようとする。そして前述のように毎日のように起こるアメリカの人種差別は日本までは届かないニュースであったりするので、日本人からなかなか理解や配慮がしにくいだろう。

「差別だと言う人が差別をしている」というよく聞くフレーズ。そういう発言をしてしまう人は、差別を受けたことがない、差別がどういうものか理解できていない、そういう友人や環境に出くわしたことがない、経験の乏しい人ですと主張している、恥ずかしい発言にしか聞こえない。

では、いつまでもこのように慎重に行動することで差別のない世界を本当に生み出せるのだろうか? 最終的なゴールは、肌の色にコメントしたり、ジョークを言ったりしたりしたところで誰も傷つかないことを目指さなくてはいけないのではないのか?

それは理想論であり、いま根本的な問題が解決・消滅しきっていない中それを求めることはできない。

いじめを受けた人は、その人にしかわからない傷がある。いくらいじめた人が謝罪をしても、許せないこともある。それを他人が「もういい加減許したっていいじゃない」と批判することはできない。

いじめられた人の傷が完全に癒え、二度と同じことが繰り返されなくなった時、初めてその理想に向かって歩み始めることができるのである。

そしてそのゴールはいまは視界にも入ってこないほど遠くにあるような気がしている。

あのバスの中で叱ってしまった女性には悪いことをしてしまったかもしれないと後で後悔した。「あはは、すみません」と謝っていた彼女は、なんで怒られたのか見当も付いていなかったかもしれない。

歴史の違う日本人に、アメリカ人のように敏感になれとは言えないが、日本の歴史や現状に置き換えられることもたくさんあると思う。国際社会を目指し、来年東京でオリンピックを迎える日本の人たちに、少々立ち止まって考えてもらいたかった。

もしグローバルシティズンでいたいのなら、外国に行ったり、外国人の人と触れ合うことがあるなら、頭の片隅で良いから私の小言を思い出していただきたい。

ファッション界も映画界でも、さまざまな人種と触れ合うことができるのは、私にとって何にも代え難い貴重な経験です。これからももっともっと色んな文化や歴史を学んでいきたい!

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