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「子どもを持つことで初めて理解できた愛。私は愛されてきたんだと知った」

  • 2019.5.13
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子どもを持つ、子どもを持たない……これってどちらが幸せか? なんて問いには意味がない。漠然としたイメージで比較するのではなく、表に出てこない一般のリアルな事例を受け止めてみる。そうすることで、自分はどうしたいか、自分にとってどちらが望ましい人生か――自分だけの答えが見えてくるはず。

「普通の蝉は七日で死ぬ。もし、八日目まで生きた蝉がいたら、どんな光景が見えるんだろう」。映画『八日目の蝉』で出てくる台詞だ。映画の革新に迫る台詞なので、映画の中での意味は明かせないが、私はこのように捉えている。

七日で死ぬ普通の蝉 = 噂や思い込みだけで満足し一生を終えた蝉
八日目まで生きた蝉 = 一歩踏み出し、真実に触れることができた蝉

現代社会は、七日目の蝉で終える人たちが増えているのではないだろうか。何か疑問を感じればネットで検索すればいくらでも情報が手に入る。訪れたことのない世界遺跡や、著名人の日常から、世界的な企業の節税法まで、自分で体験するより先にスマホを開けば「他人の体験談」がすぐ手に入る。

そこで得た情報がネガティブなもので溢れていたら? 大半の人が一歩を踏み出すことなく、一生を終えていくだろう。

■子どもを持つ、なんて思っていなかった。七日目の蝉だったあの頃

「子どもを持つ=幸せ」という価値観自体が古いものとなり、今では「結婚をして、子どもを持つことは大変。ひとりのほうが楽」というのが、常識になりつつあるのではないか、そんなふうに思うことがある。

私もそう考えていた。

男性と女性で異なるかもしれないが、男性視点で結婚や育児という情報を検索するとネガティブな話題が多い。「結婚は墓場」、「自分の時間がなくなる」程度ならまだかわいい方で「子どもは負債」と言い切る意見まである。

最近では「保育園落ちた日本死ね」というブログが話題になり、社会現象になったくらいだ。目をそむけたくなるような幼児虐待のニュースも見かける。「子ども=幸せの象徴」という単純な図式はもはや存在しないのだ。

私は独身時代、誰もが知る有名人とまではいかないまでも、書籍を何冊か出版したり、テレビやラジオに出演したりする機会を得た。世間から見たらちょっとした成功者の部類に見えただろう。

当時、独身であることに不自由を感じたことがなかった。時間もお金もすべて自分の自由に使える。寂しいと思う暇もないほど、SNS経由で頻繁に飲み会の誘いも入る。

仕事も私生活も充実していたし、既婚者の話を聞く度に「結婚は墓場」と聞かされていたので、「結婚」に何の魅力も必要性も感じていなかった。

ましてや「結婚」の先にある「子ども」なんて、自分には縁のないものだと考えていた。何より、自分が主役としてスポットライトを浴びる機会がもっと続いてほしい――そんなふうに感じていた。

ところが、だ。40歳に差し掛かろうとした頃、ふと子どもが欲しくなった。きっと「孤独」だったのだ。誰といても、大勢の人の前で講演していても、どことなく感じる孤独感。

四十男ともなれば、何かしら価値を提供できなければ人は会ってはくれない。そう考えていたから、誰と会っていても何か見返りを求められているような気がして、心から腹を割って話せる人がいなかったのだと思う。

自分の心安らぐ場所、家庭を無意識に求め出していたのだろう。

そして、私は結婚して子どもを授かり、「結婚は墓場」という噂に怯えていた七日目の蝉から、八日目の蝉となった。

■子どもが生まれ、八日目の蝉になった

家庭を持ち、結婚生活も2年が経とうとしている。結婚をして失ったものもあった。噂通り自由なお金と時間は激減し、執筆や講演活動に割ける時間も大きく減った。

家庭優先になりSNSでつながっていた人たちとも疎遠になった。自分に当てられたスポットライトは随分遠くに行ってしまった。独身時代のライフスタイルはすべてといっていいくらい失った。

しかし、得たものもある。子どもを持つことで、初めて理解できたことは「愛」だ。よくある「ノロケ」かと思われるかもしれない。ただ、私は子どもを持つまで「愛」というものがどういったものか理解できていなかったと思う。

初めて子どもを持つ家庭向けに「初めてのパパ・ママ教室」というのが、大抵の地域で開催されている。そこに参加したとき、こんな話を聞いた。

昔、フリードリヒ二世(神聖ローマ皇帝)が、領内の赤ん坊を施設に集め、ミルクは与えるが「絶対に話しかけてはならない」という実験を行ったそうだ。この実験に利用された赤ん坊はすべて死亡したという。

栄養と睡眠、環境が整っていても「愛情」を与えられなかった赤ん坊は生きていくことができない、という教訓だ。今こうして自分が生きているということは、親が愛情を持って接してくれた証拠なのだ。

夜泣きにおむつ換え、数時間毎にミルクをあげる。噂で聞いていた通り、育児には大変な労力がいる。大変だと思う一方で、こうやって自分は育てられたのだと気付いた。子育てを通して、いかに自分が親から愛されていたかを理解できた。

■孤独感がなくなった日

時が経つにつれ子どもが「笑顔」を作れるようになってくると、子どもに笑ってほしくて、ピエロのようにおどけてみせる。親の気持ちを察してか、子どもも私のおふざけに付き合ってくれる。

さらに時が経ちコミュニケーションが取れるようになってくると、今度は子どもが一生懸命にダンスやファッションショーを披露してくれる。

私が子どもに笑ってほしくて一生懸命だったように、今度は子どもが親を喜ばせようと一生懸命になってくれている。そう考えるととても愛おしく思えてくる。

「愛」に「お金」も「セックス」も必要ないのだ。自分が存在しているということ、それ自体が誰かに愛されてきた証拠なのだ。そう考えると「孤独感」を感じることはなくなった。

そして、独身時代に浴びていたスポットライトも、自分は舞台から降り、見守る側の人生へと道を切り替えたのだと悟った。時折寂しさは感じるものの、未来の主人公の成長を考えるのは、それ以上に楽しみだ。

■誰もが感じる「幸せ」はメディアには扱われない

あるとき、メディア関係者にこんなことを聞いてみた。「子育てって、辛いこともありますけど、幸せと感じることも多いと思うんです。でも、ニュースを見てると、子育てが嫌になるニュースばかり見かけるのはなぜでしょうか?」

するとこんな答えが帰ってきた。

「普通の人が結婚して、子どもが産まれて、子育てが幸せって、あたりまえのことじゃないですか。みんな知っててあたりまえだからニュースにはできないんですよ。結婚して幸せですなんてコメント載るのは芸能人くらい。普通の人の子育て話なんて、とびっきり暗い話題か何か尖った要素がないと、誰も興味持ってくれませんから」

もし、メディアから得る情報によって「子育て」は大変と億劫になっているのなら、それは七日目で死んでいく蝉と同じかもしれない。一歩を踏み出した八日目の蝉になったとき、当人しか知り得ない子育ての辛さや、喜びがあるのだろう。

Text/久原崇(仮名)
本業はサラリーマンだが、これまでに3冊の書籍を執筆し、多数の講演も行うパラレルキャリアの実践者。現在は家庭を持ちイクメン中であるためメディア活動は休止中。

画像/Shutterstock

2016年5月8日公開
2019年5月12日更新
※文中の数字は記事公開時のものです。

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