ヘレナ・ルビンスタインと芸術家たち。【アート収集家 3】

マレにあるユダヤ芸術歴美術館で『ヘレナ・ルビンスタイン 美の冒険』展が始まった。この場所での開催は、ヘレナ・ルビンスタイン(1872〜1965)がユダヤ人であることに由来している。彼女が生まれたのはポーランドの古都クラクフにあるユダヤ人街で、オーストリアのクラクフ大公国だった時代だ。さほど豊かではない家庭に8人姉妹の長女として生まれた彼女は、働く女性が少ない時代に結婚を拒否して、ほぼ無一文から自らの名前を冠したブランドを設立。優秀な女性実業家として一大美容帝国を築き93歳で亡くなるまでの、身長147cmながら偉大なる女性の人生をこの展覧会で辿ることができる。

ニューヨークの自宅で撮影されたヘレナ・ルビンスタイン。1954年とあるから、82歳の時だ。Collection Lilith Fass, Paris ; DR

美容界での功績はもちろんだが、展覧会は彼女と芸術の関係にもスポットを当てているのが興味深い。彼女ほどの女性となれば、著名な画家たちが肖像画を描き、著名な写真家たちがポートレートを撮影し……。でも、彼女は芸術に対しても受け身でいるだけでなく、行動を起こしているのだ。彼女のアートコレクションの始まりはプリミティブアート。競売場などで入手したアフリカのマスクやコートジボワールの彫像などを、自宅に飾って楽しんでいた。そのプリミティブアートのコレクションはいつの間にか名作とされる“Bangwa Queen”のような貴重な作品も含む大規模なものとなり、1935年にMOMAで開催された『アフリカン・アート』展に彼女のコレクションから17点が貸し出されたほどだ。今秋にはケ・ブランリー/ジャック・シラク美術館で『ヘレナ・ルビンスタイン マダムのコレクション(仮題)』が予定されている。

1920年代の後半、ラスパイユ大通りの自宅にて、アートコレクションとともに。photo:Boris Lipnitzki ,Paris, Archives Helena Rubinstein - L’Oréal

1962年に撮影されたナイツブリッジ247番地のロンドンの自宅。プリミティブアートが随所に飾られている。photo:Paris, Archives Helena Rubinstein - L’Oréal ; DR

プリミティブアートに加え、マティス、ブラック、シャガール、ピカソなど、さまざまな分野、さまざまなスタイルの芸術作品を尽きぬ予算で買い集めた彼女。1992年にパリで暮らし始めてからは、自宅のディナーにアーティストたちを招き、また彼らのアトリエにも出向いてゆき、そして現役で活躍している画家たちの作品を集めるようにするなど、メセナとしての活動にも力を入れた。彼女の芸術への情熱は1908年に結婚したエドワード・ウィリアム・タイタスによって助長され、芸術界のミューズとして知られるピアニストのミシア・セール(注:当時はまだセール姓ではない)との出会いによって拍車がかけられた。ミシアもポーランド出身で、彼女がホアン・グリ、モディリアーニ、作家のコレットなどをヘレナに紹介したのだ。夫はアメリカ人のジャーナリストだが、ヘレナと同じポーランド・ジューイッシュの血をひいている。ふたりが出会ったきっかけは、彼女が彼を化粧品の広告文を書く仕事にメルボルンで雇ったことだ。ブランドを紹介する際にヘレナのことを“マダム”と呼ぶようにしたのも、彼のアイデアである。彼女は結婚後、彼の14区の出版社と書店のために出資。ヘミングウェイ、ジョイス、フィッツジェラルド、そしてマン・レイなどと知り合いの彼は、ヘレナに彼らを紹介した。

フリーダ・カーロ、サルヴァドール・ダリ、エリー・ナーデルマンなどのアーティストとヘレナのツーショットを集めて展示。

ダリ、マリー・ローランサン、パヴェル・ティエリテェフなどが描いた自身の肖像画の前で。ニューヨークで1940〜1950年頃の撮影。photo:Paris, Archives Helena Rubinstein - L'Oréal ; DR

1955年、妹ステラとカンヌにピカソを訪問。彼はヘレナの肖像画は決して描こうとせず、彼女のデッサンだけを残した。photo:Paris, Archives Helena Rubinstein - L’Oréal ; DR

ヘレナは買い集めた芸術作品を、パリ、ニューヨークの自宅に場所がなくなるほど飾っていた。そして、彼女のビューティサロンにも。たとえば1937年にニューヨークの5番街に開いたサロンには、マリー・ローランサン、モディリアーニ、デ・キリコ……。ブランクーシの有名な彫刻『空間の鳥』は、パリのサロンに飾られた。ビューティサロンに芸術作品を飾ったのは、彼女が初めてだそうだ。

1945年頃に撮影されたフォーブル・サントノーレ通り52番地のサロン。ブランクーシの『空間の鳥』が中央奥に見える。photo:Maurice Routhier ,Paris, après 1945 Paris, Archives Helena Rubinstein - L’Oréal

彼女は22歳の時にウィーンで叔母の毛皮店で店員として働き始め、その後、叔父を頼ってオーストラリア行きの船に乗る。叔父のところで働くが仕事が辛く、ビューティサロンを開きたいという夢を抱えてメルボルンへと出て行く。叔父のところで働いていた時に日差しと風のせいで顔にシワが深く刻まれていた農婦たちが、ヘレナの美しい肌を羨んだことがきっかけだ。オーストラリアに行く時に、母が託してくれたポーランドに伝わる製法の保湿クリーム。これを作れば売れると信じた彼女は、薬局で働き、豊かな家で家政婦をし、ティールームでウエイトレスをして貯金をする傍ら、植物とラノリンをベースにしたクリーム作りに成功する。“ヴァレーズ(天からの授かり物の意味)”と名付けたクリームは売れに売れて、1902年、ついにメルボルンにビューティサロンを開くのだ。新聞に広告をのせ、女優や歌手をエジェリーに選び……やがてシドニーに2号店を開くまでに。

1910年代、ヴァレーズの宣伝に当時のセレブリティを活用するアイデアをヘレナは持っていた。

このように早い時期から広告の力を理解していた彼女は、パリ時代は、マリー・ローランサン、デ・キリコ、デュフィ、ミロなどにヘレナ ルビンスタインの広告ビジュアルをオーダー。ニューヨークに新しいサロンを開いた1937年には、ちょうどMOMAで『シューレアリスム』展のオープニングがあった。そこで彼女はマン・レイの『天文台の時 恋人たち』を購入。赤い唇が円盤のように空に浮くという、いまや有名な作品……口紅のプロモーション用に、ということだった。

ヘレナにおいて、アートは収集するだけに留まらず。晩年、ふたり目の夫と子どもを亡くし落ち込んだ彼女は、姪が暮らすイスラエルを訪問し、すっかりイスラエルの人々が気に入った。そして、建国間もない国を援助するためにテルアビブ美術館の現代アート館の建築に出資するのだ。ヘレナ・ルビンスタイン・パビリオンと命名された館のオープンは1959年。その6年後、彼女は93歳で亡くなる。

テルアビブ美術館のオープニング。1959年。photo:Paris, Archives Helena Rubinstein - L’Oréal ; DR

ヘレナは建築、室内装飾にも趣味趣向を発揮した。パリに最初に開いたサロンにはアンドレ・グルーの家具を置き、第一次大戦後に引っ越したフォーブル・サントノーレ通り126番地のサロンは仲良しのクチュリエで室内装飾も手がけていたポール・ポワレに内装を任せている。いったん手放したアメリカの会社を恐慌で株価が大暴落した際に有利に買い戻すという鋭い女性実業家ぶりを発揮した後、フォーブル・サントノーレ通りの52番地に自宅を購入。ここに会社、ビューティサロンのすべてをまとめるが、それから間もなくラスパイユ大通り216番地に建物を丸ごと購入して、家族は引っ越しをする。

ラスパイユ大通り216番地の自宅(今もこの外観は健在)。1920年代、彼女のモダン嗜好が見て取れる。建築はブリューノ・エルクケン、内装はエルノ・ゴールドフィンガーに任せた。1階に夫は劇場スペースを持った。

次いで1932年にサン・ルイ島に建つ17世紀建築の個人邸宅エスラン邸を買い取るが、彼女は建物を解体させ、新たな建築をルイ・スーエに依頼した。室内では古い家具とジャン・ミッシェル・フランクにデザインさせた家具が共存。壁を飾るタピスリーはジャン・リュルサ、ピカソが描いた絵を織ったものだった。この家に暮らし始めた1年後の1938年に彼女は離婚し、23歳年下のジョージアのプリンスと再婚する。第二次大戦中、一家でニューヨークに疎開し、終戦後はパリとニューヨークを行き来する暮らしに。大戦中にサン・ルイ島の自宅もビューティサロンも別荘もドイツ占領軍による略奪と破損の被害を被ったが、彼女はルイ・スーエ、ジャン・ミッシェル・フランクたちにすぐさま復元をさせた。不屈の73歳だ。

建築家ルイ・スーエに建てさせたサン・ルイ島のベチュンヌ河岸のアパルトマンにて。ジャン・ミッシェル・フランク、ルイ・マルクーシにデザインさせた家具と古い家具をミックスしたインテリア。彼女のいるところ、プリミティブアートあり。photo:Paris, Archives Helena Rubinstein - L’Oréal ; DR

リュルサ(左)、ピカソの絵をタピスリーに織り、自宅の壁に飾っていた。

1937年、ニューヨークに開いたより広いビューティサロンのためにはデ・キリコに壁面装飾を依頼。

1940年頃のニューヨークの自宅。photo:Paris, Archives Helena Rubinstein - L’Oréal; DR

1965年に彼女が亡くなり、翌年、ニューヨークで彼女が所持していたあらゆる品々が競売にかけられた。芸術作品だけでなく、乳白色が美しいオパリン・グラス、人形の家、銀器、食器なども彼女はコレクションし、さらにモード好きな彼女はジュエリー、オートクチュールにも大きな情熱を傾けていた。ポートレートの撮影には必ずクチュールピースを纏ってカメラの前に立ったという。ウォルト、ヴィオネ、シャネル、スキャパレリ、ランバン、バレンシアガ、ディオール……サン・ローランが1962年にクチュールメゾンを開くと、90歳のヘレナは早速顧客となった。会場では さまざまなクチュリエの服を纏った彼女のポートレートと彼女が着たクチュールピース4ルックを展示。展覧会はクラクフ、ウィーン、メルボルン、ロンドン、パリ、ニューヨーク、テルアビブと都市別に展開するが、なかでもパリに多くスペースが割かれている。

1905年、シャルル・フレデリック・ウォルトのクチュールドレスで。photo:Paris, Archives Helena Rubinstein - L’Oréal

左から。ペドロ・ロドリゲスによるイブニングコート(1960年頃)、クリスチャン・ディオールによるドレス(1957年)、クリストバル・バレンシアガによるスリーピース(1950年頃)、クリストバル・バレンシアガによるスーツ“ひまわり”(1960年頃)。

1939年、フラミンゴの刺繍を施されたスキャパレリの“サーカス・コレクション”を着て。Musée d’art de Tel-Aviv, don d’Helena Rubinstein© ADAGP, Paris, 2018

彼女の豪華なジュエリーコレクション。写真でしか見られないのが少々残念だ。photo:Paris, Archives Helena Rubinstein - L'Oréal ; DR

『Helena Rubinstein L’aventure de la beauté』展会期:開催中〜2019年8月25日会場:Musée d’art et d’histoire du Judaïsm71, rue du Temple75003 Paris開)火・木・金 11:00〜18:00、水 11:00〜21:00、土・日 10:00〜19:00休)月料金:10ユーロ

オーストラリアでヘレナを最初の成功へと導いたクリーム。1910年頃のValaze Pomma de Noire。photo:Paris, Archives Helena Rubinstein - L’Oréal

1913年、パリ郊外のサン・クルーにラボをもつ。オーストラリアからヨーロッパに戻った彼女は医者、皮膚科医、美容外科医などに会い、温泉地を巡り、美容に科学的要素は必要不可欠と確信したのだ。肌タイプを3つに分けた商品開発をし、 黒人のエンターテイナーであるジョセフィン・ベーカーのために化粧品を作ったのも彼女だ。photo:Archives Helena Rubinstein - L’Oréal - DR

蚤の市などで見つけた品から、パッケージをインスパイア。

クチュリエのポール・ポワレが内装を手がけたフォーブル・サントノーレ通り126番地のビューティサロン。右下は52番地のビューティサロン。「身体の維持なしに美は存在しない」と、ここでは体操も行われていた。その後、ニューヨークのサロンでは“ルビンスタイン・リズミック”を教えるためにバレエ・マスターを雇っていたそうだ。

サン・クルーに工場を作り、クリームの工業生産を開始する。1924年頃。photo:Paris, Archives Helena Rubinstein - L’Oréal - DR

オーストラリア、ロンドン、パリ、ニューヨークで成功を収めた後、ウィーンにサロンを開く。現地の歌手でビューティーブランドLa Bella Nussyのオーナーであるヘレーヌ・ウインタースタイン・カンペルスキが発明したウォータープルーフ・マスカラのライセンスを購入。1939年にニューヨークで開催された万博で、ヘレナ・ルビンスタインのオリジナル新製品として水中バレーの形式で発表する。

口紅jazzのための広告。ジャズピアニストのデイブ・ブルーベックとモデルのスージー・パーカーをリチャード・アヴェドンが撮影した。photo:Richard Avedon, 1955、Paris, Archives Helena Rubinstein - L'Oréal

1948年に、ニューヨークに床屋、ブティック、レストランも備えた男性用サロンThe House of Gourielliを開く。俳優トニー・カーティスも顧客に。1954年頃。photo:Paris, Archives Helena Rubinstein - L’Oréal ; DR

ニューヨークのビューティサロン(右上下)。彼女はエステティシャン養成学校を開き、生徒たちにビューティレッスンを行っていた。生徒は6ヶ月後、賞状を持って卒業(左)。ニューヨークではエリザベス・アーデンとの敵対関係が有名で、ヘレナは彼女を名前で呼ぶことはなく、“あちら”と表現していたそうだ。

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