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アメリカの青春カルチャーに見る、光と影。そして、失われた輝きについての視点と解説。

  • 2018.10.17
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アメリカの青春カルチャーに見る、光と影。そして、失われた輝きについての視点と解説。
2018.10.17 12:00
世界中にあふれ返っていたと思えたハリウッド青春映画や、その原作となった青春小説などは、どこに行ってしまったのか? 懐かしの作品などを通じて、アメリカ人作家でカルチャー・クリティックのクリストファー・ボレンに聞いてみた。

アメリカを象徴する青春映画、小説、歌とは?


個人的に思い出すのは中学2年のとき。私は、(ロックバンドの)ザ・スミスが好きだったけれど、ガンズ・アンド・ローゼズは好きではなかった。そして、仲間はみんな、バックパックに(アイドルグループの)ニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックの缶バッジをつけている同じクラスのアンドレアという女の子のことがさっぱり理解できなかった。しかし、所詮、アンドレアも自分たちも、自らのアイデンティティをつくりあげようとしていただけ。自分が何者であるかを解き明かそうとしていたのだと今となってはわかる。


つまり、若いときに共感する映画、本、歌というものは、独立した個の意識を持った人間になっていくうえでの第一歩のようなもの。10代の若者にとって自分が大好きな、あるいは、ものすごく嫌いな音楽、映画、本を選ぶことはまさに自らのアイデンティティをつくりあげてゆくこと。だから今となって振り返ってみると、思春期には数え切れないほどたくさんの、少なくとも自分にとって重要な、青春を描いた作品が誰にもあるのだと思う。


何を隠そう、私は今も『ブレックファスト・クラブ』(85)、『セント・エルモス・ファイアー』(85)、『フットルース』(84)、『恋しくて』(87)、『プリティ・イン・ピンク/恋人たちの街角』(86)のサウンドトラックに入っていた曲はすべて歌える。これらのサウンドトラックアルバムは私のレコードコレクションにとって非常に重要な位置を占めていたうえ、これらのおかげで出会えなかったであろう多くのバンドや音楽を知ることができた。


しかし、大ヒット映画のための大ヒットサウンドトラックという方程式は、他のヒット製造法と同じように、やがて決まりきったやり方となり、人々から支持されなくなってしまった。それに、今の若者たちにはレコードのB面から新たなバンドを発見する必要がない。その手のリサーチを自分に代わってやってくれるアプリやブラウザからのおすすめというのがあるから。それでもやはり、私はあの頃が懐かしい。特に『トップガン』(86)の「TAKE ME BREATH AWAY/愛は吐息のように〜LOVE THEME FROM “TOP GUN”」が記憶に残る。


そんなことを思い出しながら、改めて客観的にアメリカの青春を最もよく象徴する作品を選ぶとすれば、映画は1955年のジェームズ・ディーンとナタリー・ウッド主演の『理由なき反抗』か1988年のウィノナ・ライダー主演の『ヘザース/ベロニカの熱い日』。音楽では、デヴィッド・ボウイの「ヤング・アメリカンズ」ほどの傑作はないと思っている(ボウイはイギリス人だけど)。そして文学においては1878年のヘンリー・ジェイムズ著の『デイジー・ミラー』だ。デイジーは奔放で、身なりのよいティーンエイジャーで、世間の常識や礼儀作法といったものに反抗し、ハンサムなイタリア人と夜を過ごすためには自分の命さえ惜しまない。彼女こそが反抗するティーンエイジャーの原型だ。


これらは皆、違う時代に生まれたものだが、一つの共通点がある。それは反抗だ。これこそが真のアメリカの青春物語の中心をなすテーマ。アメリカの若者たちが反抗する者を崇拝する背景には、その精神こそが自立、個性、独立心の究極のヴィジョンだから。どの時代、あるいは世代も、この反抗的精神をさまざまな人物像を通じてつくりあげている。『デイジー・ミラー』の興味深い点は、ヘンリー・ジェイムズが「ティーンエイジャー」という言葉さえ存在しなかった頃に、怖いもの知らずで、頑固なティーンエイジャーの姿を描き出しているところだ。もっとも、このようなティーンエイジャーは『ロミオとジュリエット』など、偉大な文学にはたびたび登場している。

アメリカの経済発展が生み出した若者文化。


実は1920年代以前のアメリカでは、人というものは、子どもか大人か、この二つの概念しか存在しなかったといわれている。つまり、学校へ通い、両親の手伝いをするか、自活するために世間に出て働くか。そこで、子どもでもあり、大人でもあるという「中途半端な」時期が世に認識されたのは、1920年代に「ブライト・ヤング・シングス(BRIGHT YOUNG THINGS)」と呼ばれる派手に着飾った上流階級の魅力的な若者たちが、ロンドンを闊歩するようになってからといわれている。


しかし、「ティーンエイジャー」という人生の一時期および人口統計学上の層がアメリカで誕生したのは、第二次世界大戦後のことなのだ。映画『理由なき反抗』の大ヒットが象徴したように、1950年代がアメリカの青春および思春期文化の全盛期だった。戦後の好景気を受けた「黄金時代」と呼ばれた年代には、人気歌手やハリウッドスターを取り上げたセレブ雑誌が台頭し、ティーン文化を定義づけたと言っても過言ではない。そしてそこで描かれたティーン像には、心が張り裂けそうな失恋、誰にもわかってもらえないという思い、レザージャケット、自由をめぐっての親との口論、会うことを親に禁じられた相手との恋愛などの要素が詰まっていた。


私が思うには、ティーンエイジャーは大人に課せられている仕事や家族への重い責任を担うことなく、大人としてのあらゆるドラマティックな感情を心ゆくまで追求することが可能な存在。青春時代は何かに執着したり、自分のことで頭をいっぱいにするのに理想的なときであり、そんなジェットコースターのような精神状態は、音楽やアートに触れるのに最適なのではないか。若いときに失恋したり、傷ついたりするのは大切なことであり、刺激的でもある。失恋するたびに世界の終りのように感じられることだろうが、それこそが純粋な時間なのだ。


1960年代と1970年代は先の反抗的精神に政治が加わった。1980年代は若者の執着の対象が、お金、ステイタス、有名ブランドの服に変わり、1990年代のティーンエイジャーはオルタナティブへと向かい、ややむさくるしい格好(グランジ)をした。しかし時代は変わっても、誰もが皆、自分の親たちに反抗しようとしていた。

現代のアメリカの若者たちに何が起きているのか。


もちろん、ティーンエイジャーという概念が生まれたのは、商業的な誘因があったから。若者層はファッション、エンターテインメント、食、その他ありとあらゆる業界にとって理想的な市場ターゲットとなった。もちろん、商品を売りつけられるために皆が存在しているという考えを受け入れるほどナイーブではない。


しかし、1950年代以降、消費文化が有無を言わさずティーンエイジャーや若者たちに彼らが求めるライフスタイルや商品を売りつけようとしてきたのは否定できないだろう。この背景には、戦後豊かになったアメリカ社会のティーンエイジャーたちは、アルバイトで稼いだお小遣いがあったうえに、親にお金をねだることもできたから。

ロマンスをあきらめた現実的で合理主義な若者像。


ただ、その後の消費主義はどうやらやりすぎてしまったのではないか、と思ってしまう。現代のアメリカの若者たちは、あらゆることがリアルでないとわかりつつも、消費文化の波に乗っている。例えば「新しいボーイズグループ」というものは中年のマーケターによって書かれた合成のポップミュージックを売るためだけに生み出されたものや、「反抗的精神」を表すかすかに反抗的に見える商品がショッピングモールで売るためにつくられていても。言い換えれば、ティーンエイジャーたちはもはやそれが本物であるかどうかや、反抗のあるべき姿であるかどうかを気にかけるのをやめ、まがいものや、商業主義を当たり前のように受け入れるようになってしまった。


ある意味、若者たちは何であれ、自分たちが買うように仕向けられたものに喜んで応じることにしたわけだ。これは現代の若者たちに対する、いささか皮肉な見方かもしれない。ひょっとしたら、彼らは映画や小説の中であれほど鮮烈だった青春時代のロマンスをあきらめて、世界に対してより現実的で実際的なアプローチをするようになっているのかもしれない。


あるいは、今の若者たちは私たちがティーンエイジャーだった頃よりはるかに賢く、合理的なのかもしれない。しかし、彼らが若者であるという奇跡の一部を体験せずに過ごしてしまっていることは確かだと思う。

若者文化につきまとう悲劇や悲恋はどこへ?


一方、悲劇性は若者であることの大きな部分を占めている。先にも触れた『ロミオとジュリエット』を思い起こしてほしい。若者の神経は鋭敏で、年を重ねた者よりもはるかにピリピリと張り詰めているために、どんな体験も重く、切迫したものに感じられるものだ。S・E・ヒントン原作の『アウトサイダー』やブレット・イーストン・エリス原作の『レス・ザン・ゼロ』のようなものであっても、心の痛みや葛藤といった感覚を呼び起こす。登場人物たちはあまりにも苛酷な人生の現実に向き合わなければならず、それがまだ大人にはなっていない若者たちに起こるからこそいっそう悲劇性が増す。


ある意味、こうした小説や映画の中で描かれる青春時代の悲劇は戦争のメタファーではないかと思う。人類の歴史の大部分において、徴兵され、厳しい死の可能性に直面させられてきたのはティーンエイジャーたちだったから。


しかし、ディズニーチャンネルが若者を描いた、若者向けコンテンツをつくっている今日においては、戦争や死はあまり売れ行きにいい影響を与えないうえ、広告主も呼び込めない。だから、彼らはあらゆる痛み、切望、悲しみ、荒廃を中和し、お笑いと笑顔のあるコンテンツをそろえて、セレブのように暮らすライフスタイルに焦点を当てる。

もはや映画の中に若者のロールモデルがいない?


中でも『トワイライト』シリーズは今述べたような暗い感情の一部を前面に押し出そうとしたように見えるかもしれない。しかし、実際問題、ヴァンパイアやオオカミ男は人生の教訓として共感するにはあまりにも現実離れしすぎていて、英雄的キャラクターが出てきたり、うっとりしたり、空を飛んだり、ハラハラドキドキのあまり深みのないロマンティックファンタジーのように私には思える。


一方、『アウトサイダー』は本当の意味で自分のアイデンティティのために闘う成長物語だし、『華麗なるギャツビー』は金と美貌の世界にとらわれることがどれほど恐ろしく、最終的には身を滅ぼすことになるのかについての物語だ。こうした名作は今の時代にも十分、心に訴えかけてくるものがある。現代も青春映画がなくなったわけではないが、昔ほど話題にならない。おそらく、今の若者世代は長編映画を自らのロールモデルを見つける場とは考えていないのだと思う。たぶん、映画というメディアの中に自分の似姿を見出せないから。


何といっても、現代は彼らが受け身ではなく、より能動的に参加することが可能な新しいテクノロジーがいろいろとある。今や若者たちは自らスターとなることが可能で、映画や小説のキャラクターを通じて生きる必要がなくなっている。また、映画が描く青春は、彼らにとってあまりにも暗く、身につまされるものなのかもしれない。現代の若者は憂鬱や悲しみを避けるようになっている。


かつて私たちは憂鬱や誰も理解してくれないという屈託を抱えて反抗していたものだが、今の若者たちは絶えずこうした暗い感情を避けるよう教え込まれている。それがセラピーを通じてにせよ、薬を通じてにせよ、どの業界も若者たちの悲しみや孤独を癒やすことに全力を傾けている。

テレビドラマやリアリティ番組がもたらしたもの。


もちろん、映画の代わりに、テレビが10代の視聴者たちの心をつかもうとはしている。「ビバリーヒルズ高校白書」や「ビバリーヒルズ青春白書」は私の世代にとって、とても重要な試金石だった。憧れずにはいられないような魅力的なライフスタイルを示しつつ、キャラクターたちはリアルで実際によくあるティーンエイジャーの問題を経験するという巧みさや地に足の着いたところがあった。


そして「ゴシップガール」はより最近の同様のニーズを満たしていた。今後もこうした青春ドラマシリーズは出てくるだろう。傑作青春ドラマはだいたい20年に1度の頻度で現れるようだ。

すべての世代が憧れる年齢不詳な「25歳」。


実は私には新しい仮説がある。昔は、ティーンエイジャーたちはティーンエイジャーであることを望み、40歳の者は30歳になりたがったものだ。しかし今は、誰もが25歳になりたがっているように見える。つまり、ティーンエイジャーも大人も等しく、若き大人(ヤングアダルト)になりたがっているわけだ。


カーダシアン家はこの年齢不詳さというか永遠の若さを体現している気がする。キム・カーダシアンは何歳なのか? さっぱりわからない。彼女はファッションと美容整形と家と車に恵まれた、裕福でグラマラスな女性であり、それが彼女の最大の魅力。彼女はほとんどホログラムのように、時間、場所、年齢という枠組みの外に存在している。


というわけで、最近のティーンエイジャーたることを夢想したりしないという意識の変化が起こっていると思う。彼らは25歳になってベル・エアの豪邸で暮らすことを夢見ているし、50歳の者も同じだ。まるでカーダシアン家がさまざまな市場をすべてすくいとって、同じ欲望の中に均一にならして入れてしまったかのように。今日では、14歳も40歳も同じ化粧品や服を買っている。若者という概念が大人に吸収されてしまっているうえ、その逆もまたしかりだ。

若者の感性こそがポップカルチャーを定義づける?


アメリカという国は、若さに執着している。これは決して変わることはないうえ、これからもずっと若さにこだわり続けるだろう。だから、真の問題は、どのような若者像が現代のアメリカの若者たちを象徴するようになるのかということだと思う。


アメリカの若者たちは今よりも進んで政治参加するようになるのだろうか(現政権のもとでは、すでにそうなりつつあると感じる)。彼らは今よりももっと多様性を受け入れるようになるのか。それとも、より物質主義が進むのか。衝動的に買い物をするようになるのか。社会問題や環境問題に取り組むようになるのか。これらはすべて非常に重要な質問になるだろう。


なぜならば、根源的な問題として、この世代を象徴する文学、映画、音楽こそがこの世代の価値観や関心事を暴くことになるから。


もしかして『レス・ザン・ゼロ』の現代版などは必要ないかもしれない。しかし、若者たちは、いつの時代も自分たちの声は重要で、自分たちが何に関心を持つかは大切だということをもっと認識するべきだとは思う。それは、よきにつけ悪しきにつけ、若者たちが関心を持つ内容こそ、結果として、世の中が関心を持つことになるから。


人は決してカルチャーから逃れることができない。いくら関心がなくても、映像と音楽はあなたを見つけるだろう。だから、あらゆる選択肢を思うままに選び取ることができる若者たちが、よい選択をすることが何よりも重要なのだ。

Christopher Bollen

アメリカのオハイオ州シンシナティ生まれの作家で評論家。小説『THE DESTROYERS(原題)』が2018年度フィッツジェラルド賞を受賞。アンディ・ウォーホルが1960年代に創刊したポップカルチャーの金字塔と呼ばれた『INTERVIEW』誌の編集長を務めた後、エディター・アット・ラージとして人物プロフィールや、書籍評論など執筆。
www.christopherbollen.com

Text: Christopher Bollen Editor: Mihoko Iida

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