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料理を愛し、料理に愛された天才、ジョエル・ロブション。

  • 2018.8.8
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8月6日、ジョエル・ロブションが73歳で死去した。1990年に「世紀の料理人」に選ばれ、多くの星を獲得したフランス料理界のスター。自らに高い要求を課し続けた彼はふたりの子どもの父親でもあったが、私生活に関しては徹底した秘密主義を貫いた。

1989年、厨房に立つジョエル・ロブション。photo:Getty Images

つましい暮らしを送った幼少期。

ロブションは1945年4月7日、フランス中部のポワティエで生まれた。住まいはグランリュ通りにある元製靴工場。「家に入るとまず、調理場として使われていた部屋がありましたが、そこから各自の寝室に行くには、ほかの住戸と共用の廊下を通らなければなりませんでした」と本誌(「マダム・フィガロ」誌、以下同)2015年のインタビューで回想している。

父のアンリは左官で、字もほとんど書けなかった。母のジュリエンヌは主婦。家族の暮しはつましいものだった。家で出される料理は簡素、しかし味はおいしかった。「母が作ってくれた、ニンニクとパセリで味付けしたパンを詰めたムール貝のファルシとプリンのことを思い出すと、胸が熱くなります。<中略>父と、姉妹のアンヌ=マリーといまは亡きミシェル、兄弟のジャン=マリーと私に、丸パンを切り分ける母の姿も懐かしく思い出します。それは厳粛な瞬間。家族にとって重要な意味を持つ瞬間でした」と2014年に「ガラ」誌に回顧している(1)。

ロブション一家は熱心なカトリック信者で、ジョエルは12歳になるとドゥー=セーヴルのモレオン神学校に入学する決心をする。「神秘性を信じる私の傾向は神学校で培われましたが、料理とおいしいものへの興味に気づいたのもここでした。勉学と祈りの合間の息抜きの時間に、私は厨房へ行って、食事の用意をするシスターたちを手伝っていました。そのうちに、司祭職ではなく料理に人生を捧げようと決心したのです(2)」

神学校で、料理との運命的な出合いを果たす。

15歳の時に両親が離婚し、家の経済状況が悪化。未来のシェフは生計の道を立てる必要に迫られ、ポワティエのレストラン「ル・ルレ」の見習いになる。「最初の仕事は鍋を磨くことでした。早朝にかまどに火をつけ、午後はジビエの羽を剥き、クロス整理係と一緒にナプキンを畳み、芝生を刈り……とこき使われました。1日14時間労働で、6カ月間休みなしでした」とロブションは著書『ロブション自伝』(3)の中で書いている。

料理の道に進んだ彼はその後パリに行き、やがて世界各地に進出していくが、晩年は故郷のポワティエで暮らすのが望みだった。「子ども時代を過ごした家を購入したところです。父が自分で建てた家です。<中略>私はポワティエでこの仕事を始めましたし、故郷で一生を終えるつもりです」と2年前に「レクスプレス」誌で語った(4)。

完璧主義者、ジョエル・ロブション。

フランス各地のさまざまなレストランで働いた後、パリで最初に雇われたのは、オーベルジュ・レストランの「ル・ヴェール・ガラン」。ジョルジュ・ポンピドーやエドガール・フォールといった大物政治家も顧客だったこのレストランで、ロブションは、シャルル・バリエ、アラン・シャペル、師匠と仰いだジャン・ドゥラヴェーヌら、グラン・シェフたちのもとで修行を積むことになる。しかし1966年に移ったパリの「ル・ベルクレイ」で送った期間こそが、彼のキャリアにとって真の転換点となった。ロブションの料理は、サルバドール・ダリ、アリストテレス・オナシス、マリア・カラス、アンドレ・マルロー、ピエール・ラザレフといった著名人たちを喜ばせた。多くのグラン・シェフたちと接してきた彼だが、その料理の腕は「ル・ベルクレイ」で洗練されてゆく。1974年には「ホテル・コンコルド・ラファイエット」の料理長に就任し、その2年後、国家最優秀職人章(MOF)を獲得する。

ロブションは完璧主義者だ。「地元の小学生の頃から、私の目標はたったひとつ。一番になることでした。これは私の性格の特徴、歳をとっても変わりません」と本誌のインタビューで告白している。そんなシェフだけに、その後も順風満帆。「ホテル・ニッコー」に移り2ツ星を獲得し、1981年にはオーナーシェフとして「ル・ジャスマン」をオープンする。開業1年でミシュランの1ツ星を獲得、翌年には2ツ星、その翌年の1984年には3ツ星を獲得した。3年で星を3つ獲得したのは、美食界でも前代未聞の出来事だった。

天才シェフを象徴する料理、「ピューレ」の誕生

1990年、美食ガイド「ゴ・エ・ミヨ」が彼を世紀の料理人と称える。ポワンカレ大通りに自分の名前を冠したレストランを開業し、「ヘラルド・トリビューン」紙からは1994年に“世界最高のレストラン”の称号を与えられ、51歳で一時引退する(期間はとても短かったが)。その後、現場に復帰し、目覚ましい躍進を続け、世界中にレストランを開店した。彼は世界で最もたくさん星を持つ料理人に。2016年には、経営するレストランすべてを合わせると、獲得した星の数は32に達した。

成功の鍵は何だろうか? 気取りのないテロワール料理(その土地土地の料理)を完全に自分のものにしたことだ。多くの星を持つ彼の看板メニューがジャガイモのピューレであることは、決して偶然ではない。

「1981年に独立した時、ジャガイモは高級レストランでは使われていませんでした。ですが、ビストロ定番料理の子豚の頭をアラカルトで出すことにした時、おいしいいピューレを付け合わせにしようと思ったのです。当時、ピューレを手作りする人はいませんでした。一般家庭ではムスリーヌ社の粉末状ピューレの素しか使われていませんでしたから! まずガストロノミー・レストランの常連客がおばあちゃんのピューレの味を再発見し、そして「ニューヨーク・タイムズ」紙がこの現象を記事にしました。私自身も世界中でこのレシピを提案してきました」と、2012年に「ラ・ヌーヴェル・レピュブリック」誌上で語っている(6)。

シェフを象徴する一品となったこのシンプルな料理は、子ども時代を思い出しながら作ったものだという。「母はよく、日曜日のチキンと一緒にピューレを出してくれました。近所の農家で手に入れるジャガイモは、我が家の定番野菜でした」と本誌のインタビューでも明かしている。

料理の真髄を伝えることに尽力する。

ロブションは決して自らの出自を忘れない。1966年にフランスの職人養成組織「コンパニョン・デュ・ツール・ドゥ・フランス・デ・ドゥヴォワール・ユニ」に入会。フランス中を歩き回ってきた彼は、伝達を何よりも大切なことと考えていた。

「コンパニョンの義務は伝達すること。先輩から受け継いだ技術、技能、コツ、目には見えない部分まで伝えていかなくてはなりません。料理には、言葉で説明できないことも多く、身につけるには観察と繰り返ししかありません」とロブションは語っている(7)。

50歳になりキャリアの絶頂期で引退を望んだのも、まさにこの義務に力を注ぐためだった。すぐに料理の道に戻ったとはいえ、彼はその後もこの「伝達」というプロジェクトへの取り組みを続けた。フレデリック・アントン、ゴ―ドン・ラムゼイ、オリヴィエ・ベランら、ロブションの厨房で修業した料理人は多い。業界ではよく「ロブションでの1年、ほかのレストランの5年に相当する」と言われた。

発想力豊か。そして要求の厳しいシェフでもあるのは、本人も認めるところだ。「付き合いにくい人間だと思います。一緒に働く人には非常に多くを求めますし、いい加減な仕事には我慢なりません。日本が大好きな私ですが、気に入らないことがあると、ゼン(穏やか)な気分ではいられません。それでも何十年も私についてきてくれる右腕がたくさんいます。気難しい性格に付き合うのが得意だったに違いない!(8)」。

そんなわけで、ロブションは不屈の忠誠心を持った支持者に囲まれている。その筆頭は間違いなく、友人でテレビディレクターのギー・ジョブだろう。ふたりが製作した料理番組「ボナペティ、ビヤン・シュール」は、2000年から2009年まで放送局「フランス3」で毎日放映された。いまでも忘れられないこの番組も、料理の技術を伝達し、料理に親しむ人を増やそうという目的で始められたものだ。友情は絶えることなく、ふたりはその後も共同で、料理に関するいくつものプロジェクトに取り組んだ。

家族のプライバシーは、徹底的に守る。

ロブションの料理人としての経歴はよく知られているが、家族のことはまったくと言っていいほど知られていない。この件について彼は徹底して秘密主義を貫き、「パリ・マッチ」誌の表紙に夫婦で登場、ということもなかった。

自分の子ども時代や、両親、兄弟姉妹のことはよく話題にしたが、自分自身の私生活について語ることは稀だった。3人の妻がいると公に認めていたポール・ボキューズとは対照的に、ジョエル・ロブションは公私の間に他人が乗り越えられない壁を打ち立て、妻のファーストネームさえ明かしていない。1966年に21歳で「ル・ベルクレイ」に採用された時にはもう既婚で子どももいたことだけが、かろうじて知られている。ロブションには息子と娘、ふたりの子どもがいる。2011年にはフランス3の番組「プラネット・グルマンド」に共同司会者として娘と一緒に出演し、視聴者を驚かせることになる。

家族的な雰囲気の番組だけに、ここではシェフもごく稀にだが、私生活に触れることがあった。「妻は、子どもたちが私に付いて厨房に行くのを歓迎しませんでした。子どもたちが料理を生業にすることを心底心配していました。無理もありません、それだけ料理は時間と労力を要する大変な仕事だと思っていたのでしょう。(9)」

こうした環境で育った娘のソフィ・ロブションだが、それでも料理人と結ばれ、現在は夫のフランソワ・カルテゼールとふたりでドルドーニュにあるレストラン「ラ・クール・デメ」を経営している。

父親としても、番組を通して娘と頻繁に会えるのはうれしかったようだ。「私はしょっちゅう飛行機で移動してばかりですから。<中略>娘と会える機会は残念ながらそう多くありません。(10)」。

それでも、規格外の人生を歩んだシェフに後悔はなかった。3年前、人生をもう一度やり直せるとしたら何を?という私たちの問いに、ロブションはこう答えている。「料理でしょうね。料理がもたらすものはあまりにも多い! 料理を通して仲間との時間や絆が育まれます。そしてこれが一番大切なことですが、料理は大切な人への愛情を表現する最高の手段なのです」

出典:

1、2:「ガラ」(2014年1月18日)3:ジョエル・ロブション、エリザベス・ドゥ・ムルヴィル共著『ロブション自伝』4、7:「レクスプレス・スティル」(2016年1月29日)5:「ロプセルヴァトゥール・ドゥ・モナコ」(2014年2月6日)6:「ラ・ヌーヴェル・レピュブリック」(2012年9月29日)8:「レクスプレス・スティル」(2014年12月10日)9、10:「テレ・2スメーヌ」(2011年9月14日)

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